隠されていた謀叛事件を信長が知ることに

黒田基樹『徳川家康の最新研究』(朝日新書)
黒田基樹『徳川家康の最新研究』(朝日新書)

そして五徳は、信康への腹いせに、信長に、信康の不行状を記した十ヶ条の条書を送るのである。ちなみに『三河物語』ではそれは十二ヶ条となっている。

そしてその条書には、「岡崎東泉記」「松平記」などによると、かつて天正3年に築山殿が武田家に内通していたことが記されていたことがみえている。「岡崎東泉記」『石川正西聞見集』が、築山殿の武田家内通と築山殿・信康処罰を一連の過程で記していることから、それは事実であったとみてよいであろう。

五徳がこの訴状を出した時期は明確でないが、信長は天正4年末・同5年末・同6年正月と、集中して三河吉良に鷹狩りに訪問してきており、それは五徳の問題に関わってのことと推測され、おそらくは同6年正月に、五徳は信長に訴状を出したのではないかと思われる。

信長はその内容について酒井忠次・大久保忠世(1532~94)に尋問し、内容が事実であることを認識する(「松平記」など)。こうしてひょんなことから、築山殿の武田家内通の過去が、信長の知るところとなってしまった。

信長への忖度で、家康は妻子を処罰へ

もとより信康自身は、かつて武田家に内通したわけではなかったと思われるものの、内通事件では、築山殿と信康はともに武田家に味方することになっていた。そのため家康は、両者を同罪とみなさざるをえなかったのであろう。

すなわち、信康が実際に武田家に内通したことがあったかどうかは問題外で、築山殿が武田家に内通した際に、信康もそれに味方することになっていたことが問題であった、ということであったろう。

それは端的にいえば、信長への忖度ということになる。家康としては、「天下人」信長に対し、かつて謀叛を企てたことがあった以上、処罰せざるをえない、と考えたに違いない。

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