江戸最大の歓楽街・吉原で働く女性は、常に命の危険と隣り合わせだった。性病に関する知識が乏しかったため、ほとんどの遊女が梅毒に罹患し、自分の顔や体が崩れていくことを嘆いて自殺する遊女も少なくなかったという。作家・永井義男さんの著書『図説 吉原事典』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。
青楼美人合姿鏡 春夏
青楼美人合姿鏡 春夏(出所=「国立国会図書館デジタルコレクション」より、加工して作成)

医学知識の欠如により梅毒や淋病が蔓延

吉原の暗黒面は多々あるが、根源にはつぎのふたつがあるであろう。

ひとつは、実質的な人身売買だったこと。女は自分の意思で遊女になったのではない。

もうひとつは、性病予防具のコンドームがなかったため、さらには性病に対する知識もなかったため、客の男と遊女はコンドームなしで平気で性行為をしていたことである。その弊害は大きかった。

江戸時代、来日したシーボルトやポンぺなどの外国人の医師はみな、日本人のあいだに梅毒(瘡毒そうどく)や淋病などの性病が蔓延していることを指摘し、とくに梅毒が猖獗しょうけつを極めているのを憂えた。

シーボルトはその著『江戸参府紀行』のなかで、「日本でこんなに深く根を下ろしたこの病気」と述べ、医者として憂慮を示した。「この病気」とは梅毒である。

杉田玄白「延べ数万人を診療した」

日本人の医者も憂えていた。橘南谿の著『北窻瑣談』にこうある。

「今にては遊女は、上品なるも、下品なるも、一統に皆黴毒ばいどくなきは無く」

つまり、遊女は上品(吉原)も下品(岡場所、夜鷹など)もみな黴毒(梅毒)にかかっている、と。

南谿は医者で、各地を旅した紀行文でも知られ、文化2年に没した。

また、杉田玄白は晩年の著『形影夜話』(文化七年)で、自分が診療した梅毒患者は毎年7、800人、延べ数万人に及んだと記している。

高名な蘭方医杉田玄白の診察を受けることができたのは少数派であろう。多くの人々は梅毒に罹患しても、その場しのぎの漢方薬や民間療法で誤魔化していた。

いったん客の男に梅毒をうつされた遊女は、今度は自分が感染源となって次々とべつな客にうつす。その客は家で妻にうつす。こうして、遊女が媒介となって梅毒がひろまっていった。