「味は最高」なのに案件を失った理由
私がまだ若く、ビジネスの勝負所における「空間の力学」を理解していなかった頃の、苦い失敗談から始めよう。
翌月に控えた大型コンサルティング案件のクロージング。相手は一代で会社を築いた気難しい創業オーナー、A氏だ。数億円規模の最終条件を詰める、いわば「最後の晩餐」である。私は完璧な舞台を用意した。ビジネス誌の接待特集で何度も表紙を飾り、食べログは4点超え。予約半年待ちで客単価3万円の超人気鮨店を、伝手を総動員して押さえた。「ここに連れて行けば、絶対に間違いない」――私は勝利を疑わなかった。
しかし、この考えこそがすべての誤りだった。3カ月間準備した数億円規模の案件を、私は一夜で失うことになる。鮨は最高だった。だが、それこそが敗因だった。
当日。案内されたのは美しく磨き上げられた白木のカウンター、わずか8席のプラチナシートだ。私とA氏が腰を据えると、大将が静かに一礼した。その瞬間、空気が張り詰めた。
「まずは私の名刺代わりにと。朝4時に豊洲で競り落とした本鮪から始めさせていただきます」
大将の朗々とした声が、空間を一瞬にして支配した。酢飯を包み込む流麗な所作、包丁の角度、ゲタに一貫を置いてからの計算し尽くされた「間」。それはもはや食事ではなく、大将を主役とした舞台芸術だった。
「仕事の話」と「大将の語り」が入り乱れて…
私がA氏に向き直り、「さて、先日お送りした条件面の件ですが――」と切り出そうとした、まさにそのときだ。
「さあ、こちら。漬けにして3日目の鰆です。この脂の入り方、尋常じゃないんですよ」
大将が目を輝かせ、一貫を差し出す。A氏は「おお」と声を上げ箸を伸ばした。当然、私たちの会話は中断される。私も口に運ぶ。確かに旨い。しかし、私の心の中では「早く数字を詰めなければ」と時計の針ばかりが響いていた。
20分後。コースの合間を縫ってなんとか契約のメリットを説明し終えた。A氏が深く頷き「なるほど、そういうスキームなら……」と身を乗り出しかけた、クロージングのその瞬間。
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