一言で店内の空気が凍った日
高級鮨店のカウンターに案内され、温かいおしぼりで手を拭き、最初の一杯を注文する。ここまでは順調だ。しかし、次に訪れる「さあ、何を握りましょうか」という大将の静かな問いかけに対して、多くのビジネスパーソンはこう答えてしまう。
「とりあえず、おまかせでお願いします」
この言葉は極めて便利だ。しかし私は、この一言で銀座の老舗の大将の目から一瞬にして光が消えるのを目撃したことがある。言い放った客は、自分が顰蹙を買ったことに最後まで気づかなかった。
何を頼めば旬の理にかなっているのか、どれが今日の一番の仕入れなのか。そうした一切の判断を保留し、すべて職人に丸投げできる。「おまかせ」とさえ言えば、恥をかくことはない。自動的に美味しいものが、正しい順番で出てくる。情報過多の現代において「絶対に失敗したくない」というエリートにとって、最も心地よい安全地帯である。
しかし、一言で「おまかせ」といっても、現代の鮨屋には決定的に異なる2つの種類が存在することを、多くの人は理解していない。
その店は「おまかせ」か、それとも「お好み」か?
ひとつは、「完全おまかせコースのみの店」。メニューが「おまかせコース」一本で、出てくるネタも順番もすべて店側が固定しているスタイルだ。客に選択の余地は一切ない。
もうひとつは、「お好み注文ができる店」。固定コースは存在せず、客が「今日は小肌とイカを」と一貫ずつ自由に注文する本来のスタイルだ。あるいは「白身を中心にさっぱりといきたい」と明確なテーマを伝え、その枠の中で大将に見繕ってもらうこともできる。
自分が今どちらの店に座っているのかを理解しないまま、思考停止で「おまかせで」と告げること。それは、職人の目から見れば「この客は自分の店の流儀すら把握していない」という宣言に等しい。
忘れられない光景がある。数年前、銀座の路地裏にある、カウンター8席だけの老舗鮨店でのことだ。この店は、頑なに「お好み」を守り続けている、東京でも今や数少ない正統派である。隣に座った大手商社の役員と思しき40代後半の男性が席に着くなり、胸を張ってこう言い放った。
「大将、コースで。一番いいやつ、おまかせで」
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