特効薬はなく、症状がおさまるのを待つのみ
不特定多数の男と性交渉をするにもかかわらず、性病の予防具は用いなかったため、ほとんどの遊女が梅毒に罹患した。ほぼ100パーセントと言っても過言ではない。
しかも、いったん梅毒にかかると、抗生物質がなかったので、完治することはない。漢方薬で痛みをやわらげるなど、その場しのぎの対症療法をおこなうだけだった。
梅毒は感染初期には局部に異常があり、髪が抜けるなどするが、しばらくすると潜伏期間にはいって、表面上は症状がおさまる。当時の人々は、これを治ったと考えた。また、いったん治ると、もう二度とかからないと考えた。
梅毒にかかって寝込むことを、「鳥屋につく」と言った。髪が抜けるのを、鷹が夏の末から脱毛して冬毛に生え変わる様子にたとえたのである。
「鳥屋についた遊女」は歓迎された
いったん鳥屋についた遊女が回復すると、もう二度と梅毒にはかからないとして歓迎された。鳥屋から回復して、ようやく一人前の遊女になったと考えたのである。
戯作『傾城禁短気』(宝永8年)に、こんな記述がある――。
すべて勤めをする女、鳥屋をせざる中は、本式の遊女とせず。いずくの色商売する方に抱ゆるにも給金安し。鳥屋を仕舞うたる女は本式の遊女とて、給金高く出し、召し抱えて重宝しぬ。
言い方を変えれば、梅毒に罹患した女のほうが、罹患していない女よりも遊女としての価値が高かったのである。誤解と無知が背景にあるとはいえ、戦慄すべき慣例である。
いっぽう、戯作『部屋三味線』(寛政年間)では、鳥屋についた遊女を年長の遊女が見舞い、こうはげます。
「気をしっかりと持ちねえナ。怠けたこっちやァ、いかねえによ。そのかわり、こんだ、病みぬいてしまうと、おそろしく達者になって、どんな湿ッかきでも瘡ッかきのお客をとっても、うつる気づかいはないのさ」
当時の庶民や遊女の医学知識がいかに貧弱だったかがわかろう。「湿ッかき」も「瘡ッかき」も、ともに梅毒のことである。
いったん梅毒になると、もうどんな客を相手にしても二度と性病になることはないから安心しろと激励しているのだ。
鳥屋について回復した遊女はその後、商売に復帰してどんどん客を取った。