150年前に実際に起きた人類とある虫との壮絶な命がけの戦い
来年2025(令和7)年は、「屯田兵」による北海道の開拓が本格的に始まって150年の節目にあたる。その開拓使の苦難を伝える存在が、道内に残されている。「バッタ塚」と呼ばれる、奇妙な昆虫の墓である。
バッタ塚は北海道開拓史時代、トノサマバッタの大量発生によって、農作物が甚大な被害を受けたことを物語る歴史遺産だ。だが長年、風雪にさらされ、その存在はいずれ消えゆく運命にある。筆者は現地を訪れ、林の中に眠るバッタ塚を確認。当時の蝗害の記録とともにレポートする。
札幌市街から道東に向けて車を走らせること3時間余り。富良野にも近い新得町新内の林道を歩き回る。探し回ること1時間。笹藪に埋もれるようにして土饅頭の塚がいくつも出現した。確認しただけで20基ほど。これが150年近く前、大量のバッタを退治して埋葬した、人類とバッタの戦いの痕跡である。
バッタ塚の説明に入る前に、北海道開拓の歴史を紹介しよう。
北海道への移住と開拓は1869(明治2)に開拓使が置かれて以降、本格的に進められていく。政府は1875(明治8)年、ロシアの南下政策にも対応するため、国防と営農を両立させる「屯田兵」を配置した。彼らは、寒冷・大雪などの過酷な環境に加え、マラリアやコレラの流行などに苦しめられながらも、未開の地に挑んだ。
北海道を訪れれば、地名に「北広島」「福井」「岐阜」「熊本」など、本州の地域名が多いことに気づくことだろう。これは、入植者たちが遠く離れた故郷を想って、名前をつけたからである。北の大地には毎年数万人単位で入植し、明治30年頃には、北海道の人口は100万人を超えたと言われている。
開拓者を苦しめたのがバッタであった。記録上、蝗害の記述の最初は1870(明治3)年。だが、かの地が蝦夷地と呼ばれていた江戸時代以前も、頻繁に蝗害が発生していたと考えられる。アイヌの人々によって、バッタの被害が語り継がれていた。
特に、明治初期に起きた十勝地方の蝗害はひどいものだった。
『十勝開拓史年表』(加藤公夫編)によれば、十勝における蝗害は1879(明治12)年6月、池田(中川郡池田町)の利別川河口流域におけるトノサマバッタ大発生がきっかけであった。原因は、この年の冬から春にかけて、大雪と大雨が続き、地表が凍結したこと。その結果、シカが笹を食べることができずに大量餓死した。利別川はシカの死骸で汚染され、またシカが減ったことで草が生い茂り、トノサマバッタの大発生につながった可能性がある。
当時の開拓使札幌勧業係が記した記録がある。
「現地の公務員や民間人はバッタの生態の知識はまったくなかった。茫然自失として何もできず、惨事を眺めているだけだった。バッタの襲来によって、青々とした風景があっという間に赤土の荒野と化した。バッタは穀物を好み、それらを食べ尽くすと他の植物へも食い荒らした。紙や布も噛み砕いた。交尾するまでの1〜2週間までが激しい群飛の期間で、1分間に650メートルほど移動する。全く手のつけようがない」(筆者意訳)
これをきっかけにして翌1880(明治13)年以降、5年間にわたって十勝地方でトノサマバッタによる被害が続く。バッタは日高山脈を超えて石狩、日高、胆振、後志、渡島、北見、釧路などに飛来。蝗害は全道へと広がっていった。バッタの大群が太陽光を遮り、日食のように辺りが暗くなったとの記述も残る。
蝗害被害を伝える図は1880(明治13)年に作成されたものだが、各地の河川に沿ってバッタが産卵地を設け、そこを中心にして蝗害が広がっている様子が窺える。