彼女の両親は一晩中、パラスカちゃんを探していた
「この子よ、人間に食べられてしまった女の子。パラスカちゃんという名前だった」
その古びた写真には、4歳ほどのかわいい女の子が写っていた。
「みんなで一緒に幼稚園から帰宅途中のことだった。村に住む、あるおばさんがやってきて、パラスカちゃんを呼び止めたの。私たちは先に帰ったんだけど、彼女はその後も戻ってこなかった。彼女の両親は一晩中、探していたわ。そしたら、あのおばさんの家で見つかったの。パラスカちゃんは、ゆでたお肉になって、皿に盛られていたわ」
ウクライナ中部に住むアンナさん(96)が、かつて目撃した「ホロドモール」の悲劇である。
「ホロドモール」とは、1932年から1933年頃にかけてウクライナで起きた悲劇。
数百万人が、飢え死にしたとされ、日本語では「飢餓殺人」と呼ばれる。
ホロドモールは、ソ連による過酷な政策が引き起こしたと言われる。当時、工業化を進めていたスターリンは、外貨獲得に躍起だった。5800万トンという、生産可能量をはるかに上回る農作物をノルマに課し、ウクライナに供出させていた。農民たちは、自ら食べる食料までソ連に送り続けざるを得なかった。食糧を失った農民たちは、木の根、犬、ミミズ、靴の革……なんでも食べた。人々は累々と倒れてゆき、全滅する村もあった。
「隣の家のおやじが自分の息子を食ったのだ」
驚くべき証言がいくつも残されている。
「餓死した人が道に倒れているが、誰も気にも留めない」
「町には犬も猫も鼠も、生きたものは一匹も見当たらない。みな食い尽くされている」
「私は実際この眼で見た。隣の家のおやじが自分の息子を食ったのだ」
ある記録には、2505人が人肉を食べたと残る。
実際の数は、それよりもはるかに多いとされている。
深く焼きついた飢餓感は、いまなおウクライナ人から消えることはない。買い物にいくと、食べきれないほど大量の食糧を買い込んでしまい、腐らせてしまう人は現在も多いと聞く。パンくずも、野菜の切れ端さえも残すことができない。ウクライナ史が専門の岡部芳彦・神戸学院大学教授は「国民的なトラウマだ」と指摘する。