世界各地で脅威が続く蝗害…日本も無関係ではない

当時は道内各地にバッタ塚が作られたという。だが、開拓が進むにつれて畑に置き換わり、現存するのはここ新得町と札幌市の手稲山口のバッタ塚くらいである。

新得町のバッタ塚は、夏期は草生す林道を探し回らなければならず、冬期は雪に埋もれてしまうので発見が困難である。

新得のバッタ塚。大きく盛り上がっている
新得のバッタ塚。大きく盛り上がっている

手稲山口のバッタ塚は札幌市街地からも近く、駐車場や散策路も整備されているので行きやすい。こちらは、1883(明治16)の大発生時に札幌区の付近8kmの地域で掘り集めた大量の卵を、砂地に列状に並べ、各列の上に砂を25cmほどかけて作られた。当時は100条ほどあったと推測される。昭和42年(1967年)に一部が発見され、1978(昭和53)年に札幌市指定史跡となった。

さて、1885(明治18)年には終息した明治の蝗害騒動であるが、再び十勝地方にバッタが大規模発生するのが1938(昭和13)年のこと。この年は国家総動員法が公布され、北海道では軍用馬の育成が実施されるなど戦時色が濃くなっていた時期にあたる。6月19日、十勝平野の西部、芽室地方においてトノサマバッタが大発生した。534人が出動し、駆除にあたった。

1940(昭和15)年10月にはハネナガフキバッタが十勝平野北部の本別地方で大発生し、現地民を苦しめたとの記録がある。

世界に目を転じれば、蝗害の歴史は人類史とも重なる。紀元前13世紀頃の旧約聖書には、サバクトビバッタがエジプトを襲った様子が記されている。また、紀元前700年頃のアッシリアの遺跡には、蝗害の深刻さを示唆する壁画が残されている。3世紀の小アジアでは、聖バルバラにまつわる蝗害の伝説が残されている。

『北海道蝗害報告書』の地図と挿絵
撮影=鵜飼秀徳
『北海道蝗害報告書』の地図と挿絵

現代の蝗害の例では、2005(平成17)年に中国で、トノサマバッタによる大規模な蝗害が発生した。2019(令和元)年には、パキスタンでサバクトビバッタが大量発生し、被害面積は1800万ヘクタールにも及んでいる。コロナ禍に入る直前の2020(令和2)年2月には、東アフリカを中心にサバクトビバッタが大量発生。ソマリア政府は国家非常事態を宣言した。この蝗害は、アフリカだけでなく中東やアジア20カ国以上にまで広がり、日本への飛来の可能性も考えられた。

現在も世界各地で蝗害の脅威は続いている。いや、気候変動の影響でバッタの大発生はますます増えていくことだろう。干ばつの後に大雨が降ると、歴史的な大発生をもたらすことが指摘されている。

バッタ塚の遺跡群は、北海道開拓期における開拓民の困難な生活と、大自然に対峙する彼らの強靭な精神を伝える貴重な文化財であると同時に、気候変動への警鐘を鳴らす大切な存在といえる。

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