織田信長の重臣だった明智光秀は、なぜ主君を討とうと思ったのか。古城探訪家の今泉慎一さんは「丹波の八上城には、光秀の母が人質に出され、信長が敵を処断したために、母がはりつけになったという伝承がある。現地を訪ね、光秀の味わった屈辱に思いを馳せた」という――。
光秀が無理に攻めなかった理由
第19回:八上城(兵庫県丹波篠山市)
八上城(図表1:兵庫県丹波篠山市八上上高城山)は、丹波国内でも有数の勢力を誇った波多野家の居城だ。黒井城(兵庫県丹波市春日町多田)の荻野直正(赤井直正)と呼応するように、1576(天正4)年1月に反織田のスタンスを明確に。当時の織田家で丹波方面の攻略を担当していたのが明智光秀だ。そのため、八上城も光秀に攻められることになる。
波多野家が反信長の態度を明らかにしてから約2年半。八上城は光秀の軍に囲まれ、籠城を余儀なくされる。その期間は1578(天正6)年9月から翌年6月まで、約9カ月。光秀は10回も攻め勝ったが落とせず、兵糧攻めに切り替えた。八上城内では400~500人が餓死したという。
城主の波多野秀治・秀尚・秀香三兄弟は、最終的に城兵に捕えられ、光秀の元に差し出された。
もともとこの開城は、光秀からの和議の申し出がきっかけだったともいう。戦前、波多野家は織田方に一度は臣従していたが、反旗を翻したという経緯があった。三兄弟が再び臣従の意を示せば赦される可能性はありうる、というスタンスだったのだろう。
この時点でまだ、丹波国内のもうひとつの敵の重要拠点、黒井城は未攻略だった。光秀としては、ここでいたずらに兵を減らすわけにはいかなかった。
長期の籠城戦を可能にした堅城
光秀が力攻めをせず、和議で決着をつけようとした堅城。圧倒的に不利な情勢にもかかわらず、9カ月間もの籠城戦を耐えぬいたのは、どんな城だったのか。八上城は本丸を中心に、タコ足のように各方向へ伸びる細尾根に城域が広がる。特に北西と北東に伸びる2本の尾根が長くしっかりしており、そこに多くの防御施設が設けられている。



