秀吉の下に馳せ参じていた名将
第15回:上月城(兵庫県佐用町)
「われに七難八苦を与えたまえ」と、三日月に祈ったとの逸話で知られる山中幸盛。一般には山中鹿之介という名で知られる戦国武将だ。主家・尼子家の再興を企図し、仇敵の毛利家との戦いに後半生を捧げた忠臣として知られるが、そのクライマックスの舞台となったのが、播磨国西端にある上月城(図表1①兵庫県佐用町上月)だ。
織田信長と決裂した15代室町将軍・足利義昭が西国へ逃げ込み、信長から播磨平定を命じられた羽柴秀吉は、1577(天正5)年と翌年の二度、上月城で対毛利戦を繰り広げている。一度目は攻撃側として同城を攻め落として織田側のものとし、二度目は逆に守備側となって毛利家からの攻撃にさらされた防御戦だった。鹿之介は、その一員として戦いに参加していた。
その二度の合戦いずれにも、若き当主・尼子勝久とそれに仕える鹿之介がいた。強大な毛利軍によって尼子氏が居城を追われ流浪すること十数年。ゲリラ戦で対抗するもなかなか決定的勝利は得られなかったのが、信長の麾下に入り、秀吉率いる大軍の一員となった。「ついに、長年の苦労が報われる時が来た」と、否応にも気持ちが盛り上がっていたに違いない。
信長の非情な命令に秀吉は…
ところが、その夢は秀吉の翻意によって、露と消えてしまう。「第一次上月城の合戦」で勝利した秀吉は、上月城の守りに尼子勝久と鹿之介を置く。そこへ毛利軍が攻め寄せてきたため、援軍に向かうのだが、信長から「上月城を見殺しにせよ」との非情な命令が下る。なぜか。
同じ播磨国、三木城(図表1②兵庫県三木市上の丸5)の城主・別所長治が、織田方から毛利方に寝返ってしまったのだ。より織田家の本拠に近い三木城への対処を優先せよ、との非情な命令。これにより秀吉は、上月城の兵たちを見殺しにせざるを得なくなる。そして「第二次上月城の合戦」は毛利家が勝利する。城は落城し、勝久、鹿之介はいずれも無念のうちに生涯を終える。
想定外の謀反が理由なのだから秀吉の決断もやむなし、と一見思える。が、あながちそうとも言い切れないのだ。その理由は、秀吉の「第一次上月城の合戦」の戦後処理での「重大な判断ミス」にある。


