秀吉の「最もツイていない時期」
第16回:平井山之上付城(羽柴秀吉本陣)・平井村中村間ノ山付城(竹中半兵衛陣所/いずれも兵庫県三木市)
運がいい。そして、勘もいい。今風に言えば、戦国武将で最も「持ってる」男が豊臣秀吉だということは、おそらく誰もが納得すると思われる。一介の庶民の出自ながら、織田信長の草履取りを皮切りに天下人まで成り上がったのだから。秀吉の人生は、運と勘の良さに背中を押された“勝負”の連続で、かつ、それに勝ち続けてきた。
信長より中国方面軍の大将に任命された秀吉は、1577(天正5)年10月より播磨侵攻を開始。立場的には、織田家中で最大のライバルで、北陸方面軍を任されていた柴田勝家と肩を並べたのだから大出世だ。緒戦は快進撃を続け、あっという間に播磨の大半を手中に収める。北隣の但馬国も弟・秀長が平定。秀吉たちは姫路城(図表1③兵庫県姫路市本町68)に拠点を置いた。
だがここから一転、坂道を転げ落ちるように状況は暗転する。きっかけは、1578(天正6)年の別所長治の謀反。そして秀吉の成り上がりストーリーの中で、最も“どん底”の時期を迎えることになる。とことんツイていない出来事が連続してしまうのだ。
尼子を見捨て「播磨大誤算」が始まる
第一の不運は、この謀反により、西播磨の上月城(図表1①兵庫県佐用町上月)を見殺しにせざるを得なかったこと。前年に攻略したばかりの同城は対毛利の最前線で、城を任せたのは尼子勝久、山中鹿之介。10年越しの仇敵打倒に燃える彼等ほど、この役にふさわしいものもいない。
秀吉もきっとそう考えていたはずだが、長治謀反により殿・信長から非情の命令が下る。毛利家の反攻が迫る上月城を捨て、長治の三木城(図表1②兵庫県三木市上の丸町5)に全軍を向けよ、と。秀吉がその指令を聞いてなんと言ったかは不明だが、平成なら「ちょ待てよ」、昭和なら「そりゃないぜセニョリータ」だ。
しかし殿の命令は絶対だ。前年、手取川の合戦では無断で戦線離脱し、“激おこ”信長からカミナリを食らったばかりでもある(おそらく創作だが、「豊臣兄弟!」では死罪を申しつけられている)。やむなく撤退、そして上月城は落城し、勝久、鹿之介も散ってしまう。これが「第一の不運」だ。


