倒幕の功をあげた新田義貞は、なぜ足利氏と敵対することになったのか。青山学院大学文学部史学科准教授の谷口雄太さんは「『保暦間記』によれば、上野国を新田義貞に与えるかわりに足利氏を殺せ、との計画が語られた。さらに建武2年11月、新田義貞には重大な『二つの選択』が迫られた」という――。
※本稿は、谷口雄太『太平記史観 日本人の歴史認識を支配した物語』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
鎌倉を目指して進撃
元弘3年(1333)5月8日頃、上野国で蹶起した新田義貞は、鎌倉を目指して進軍を開始します。これには足利一門の山名氏・里見氏・堀口氏・大館氏・岩松氏・桃井氏などが付き従いました。上野国・越後国・信濃国・甲斐国などの武士も呼応したといいます。
また、12日には足利千寿王も続けて挙兵しました。これには足利一門の世良田氏などが付き従いました。上野国・常陸国・上総国・武蔵国などの武士も呼応したといいます。
象徴としての総大将は足利千寿王ですが、実際の指揮官は新田義貞であり、東国足利氏・足利一門を挙げての進撃といえます。
11日には武蔵国小手指原、14日?16日には武蔵国分倍河原での激戦を制した新田義貞は多摩川を突破、17日には相模国瀬谷原を越えて、18日にはついに鎌倉稲村ヶ崎へいたります。
この頃には、新田氏(足利軍)と北条氏(鎌倉幕府軍)のはざまにあって日和見をしていた東国武士たちも続々と倒幕軍へ味方し、22日に鎌倉は陥落、幕府(北条氏)は滅亡しました。
新田義貞は西国の行方(足利氏と六波羅の勝敗の結果)が未確定の状態で賭けたわけであり、結果それに勝ち、さらに、自らの軍事力でも鎌倉を破って勝利をものにしたといえるでしょう。

