足利尊氏か、後醍醐天皇か

こうしたなか、北条氏残党の動きが徐々に活発化していきます。

書影
谷口雄太『太平記史観 日本人の歴史認識を支配した物語』(KADOKAWA)

建武元年(1334)11月、足利尊氏・新田義貞の両者が名指しで打倒の対象として叫ばれ、翌年(1335)4月にも足利尊氏・新田義貞の両者を暗殺する計画があったことが、歴史学者・坂口太郎さんの研究によって明らかにされています(坂口:2011年)。

上のように、鎌倉陥落から建武政権を通して、足利尊氏(足利嫡流)と列記されるほどまでに新田義貞(足利庶流)は成長したのです。先に見た、足利氏による「(新田)義貞御退治」・「連日鎌倉中空サハギ」も、足利氏の警戒感の表れだったのかもしれません。

事態が転回したのは、建武2年7月~10月のことです。

北条氏残党が鎌倉を急襲・奪還すると(中先代の乱)、足利氏はそれに反撃・再占領して、そのまま建武政権から離脱していきました。そして、後醍醐天皇が対足利氏の大将に新田義貞を抜擢ばってきしたとの風聞が流れると、足利氏は上野国を被官・上杉氏に与えたと、『梅松論』はいいます。

他方、『保暦間記』によれば、同時期、上野国を新田義貞に与える(戻す)かわりに足利氏を殺せ、との計画が語られたといいます。『梅松論』は、新田義貞周辺で何度も陰謀があったとします。

このように、建武2年11月、新田義貞には再び「二つの選択」が迫られました。

すなわち、足利一門として足利氏とともに歩んでいくのか、それとも、自らを抜擢してくれた後醍醐天皇とともに進んでいくのか、重大な決断が迫られたのです。

選択の余地はない中で出した答え

ただし、この選択は後醍醐天皇の方をとる他はなかったものと思われます。

というのも、すでに足利氏は、11月2日の段階で新田義貞誅伐の檄を諸方に飛ばしはじめており、10日には新田義貞の追討を奏上、18日にはそれが京着しているからです。

新田氏(足利庶流)と足利氏(足利嫡流)の関係は、繰り返される数々の陰謀や風聞もあって、もはや最悪のものとなってしまっており、在京(新田義貞・後醍醐天皇)─在鎌倉(足利氏)という点からも、今回は新田義貞に選択の余地はないでしょう。

こうしたなかで新田義貞が選んだ答えは、足利氏との別れでした。

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