関東誅伐という大きすぎる功

このように、倒幕の巨大な功は新田義貞にありました。これは、『梅松論』に、「関東誅伐ノ事、(新田)義貞朝臣其功ヲ成」、「(新田)義貞関東ヲ落ス事子細ナシ」などとある通りです。

しかし、それだけにとどまりません。新田義貞による鎌倉陥落は、かなりの衝撃をもって受け止められたようなのです。

たとえば、『増鏡』に、「わづかなる新田などいふ国人に、たやすくいかでかはほろぼさるべきとおぼえしに」とあります。『神皇正統記』にも、「いくばくならぬ勢にて鎌倉にうちのぞみけるに、(北条)高時等運命きはまりにければ」と見えます。

小勢の新田氏が、大勢の北条氏に勝つのはかなり難しいことであり、目の前の現実(新田氏の勝利)は、北条氏の運命が極まったとしか説明できない、というのです。

新田義貞の挙兵 → 一瞬での鎌倉幕府滅亡は予想を超えているという感じでしょうか。『増鏡』は、新田義貞の奇跡的な勝利と北条氏の潰走に、「わづかに中一日にてかくなりぬる事、ゆめかとぞおぼえし」と述べています。夢かと思ったというのも実にリアルな言葉でしょう。

太平記』にも、「西国・洛中の戦に官軍聊勝にのりて、両六波羅をは責落といへとも、関東を責られむ事は優しき大事なるへし」、「縦六波羅こそ輒く責落とも、筑紫と鎌倉とをは、十年、廿年にも対治せられかたし」とあり、六波羅以上に鎌倉攻略の難しさを物語っています。

新田義貞が敗北するか、あるいは戦が長期化するかの方が、ありえる未来だったのでしょう。

太平記』には、次のような話も見えています。

両六波羅已に没落すといへとも、千剣破発向の朝敵等、兵未畿内にみちて、威尚京都をのめり。又賤諺に、「東八箇国の勢をもて、日本国の勢に対し、鎌倉中の勢をもて、東八箇国の勢に対す」といへり。されは承久の合戦に、伊賀判官光季を追落されし事は輒かりしかとも、坂東勢重て上洛せし時、官軍戦にまけて、天下久く武家の権威におちぬ。今一戦の雌雄をはかるに、寄は纔に十にして、其二、三を得たり。

要するに、京都の六波羅探題が滅びても、幕府方の金剛山包囲軍はいまだに健在であり、そのうえ、鎌倉から再び大軍がやってきたら勝目はほとんどない、というのです。

承久の乱が先例(凶例)として想起されている点も興味深く、通常であれば、新田義貞の敗退→東国鎌倉幕府軍の再上洛→東西決戦→幕府(関東)の勝利という流れが、可能性としては高かったのでしょう。

それゆえにこそ、幕府を滅ぼし、上洛した新田義貞を、後醍醐天皇は実力者と認めて厚遇したのです。治部大輔じぶのだいふの官職はこれまで足利尊氏(足利高氏のこと。以後、足利尊氏と表記します)が名乗っていたものであり、従四位上の位階は足利尊氏の弟・足利直義より上でした。

管轄する国々には上野国・越後国・播磨国などがあって、新田義貞の力量のほどがうかがえます。

一族を率いて鎌倉を離れる

他方、そのような迅速な鎌倉倒幕によって、新田氏と微妙な間柄となってしまったのが、足利氏です。

実は幕府滅亡後、鎌倉では(新田義貞ではなく)足利千寿王が頂点に君臨します。彼は二階堂にかいどうを御所とし、武士たちもまた彼に服属したことが知られています。東国足利氏のトップゆえに、それは当然のことでしょう。

そして、日本全体として最大の功績は、足利千寿王の父・足利尊氏のものとされ、後醍醐天皇(建武政権)は足利尊氏を、武士のなかで最大限に優遇していきます。

伝足利尊氏像
伝足利尊氏像(部分)(画像=浄土寺/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

そのようななか、一体どうしたことか、「連日鎌倉中空サハギ」と、鎌倉は物騒な状況に陥ってしまったと『梅松論』は伝えています。しかもその内容が、足利氏による「(新田)義貞御退治」だというのだから、穏やかではありません。

これに対して、新田義貞が何事かを言上したことによって、事態は「静謐」したといいます。その後、新田氏は一族を率いて鎌倉を離れ、京に向かいます。新田義貞は、足利尊氏や足利千寿王との対立を望んでいなかったのです。

倒幕の功労者ではありますが、足利一門の一人として、足利氏との衝突を避けたのでしょう。他方、上洛後、後醍醐天皇(建武政権)から新田義貞が厚遇されていったことはすでに見た通りです。