裏切り続出、降りかかる不運

とはいえ、三木合戦は圧倒的な大軍で攻めることができた。三木城(図表2①)は7500に対し、織田軍は数万。しかも三木城の7500には非戦闘員も含まれていた。繰り返し嫡男・信忠を援軍に向かわせるなど、信長は秀吉を全面的に後押ししている。

三木城の戦い布陣図(現地案内板より)
撮影=今泉慎一(風来堂)
三木城の戦い布陣図(現地案内板より)。宮部継潤、加藤嘉明、堀尾吉晴など、秀吉麾下の家臣たちだけでなく、信長の甥・織田信澄の名前もある
竹中重治(半兵衛)像、天正7年、岐阜県竹中重時氏旧蔵
竹中重治(半兵衛)像、天正7年、岐阜県竹中重時氏旧蔵(写真=PD US expired/Wikimedia Commons

この状況を見る限り、圧倒的兵力差でわけなくひねりつぶせそうな気がするが、三木合戦は2年近くも続いてしまう。攻城戦は兵力差が相当あっても守備側有利のため、力攻めは犠牲が大きい。そこで慎重を期し兵糧攻めを選んだとはいっても、2年はかかりすぎだ。その理由の一端は、このあと秀吉に降りかかってくる不運の連続にある。

三木城を囲むも、荒木村重が離反

まず、先の布陣図にも書かれている味方だったはずの荒木村重が離反してしまう。開戦から約半年後、1578(天正6)年10月のことだ。さらに村重の籠る有岡城(兵庫県伊丹市伊丹1-12-12)へ説得に差し向けた秀吉の片腕・黒田官兵衛が幽閉されてしまう。第二、第三の不運が立て続けに訪れてしまったのだ。

秀吉以下の織田軍は大軍で三木城を囲んでいたとはいえ、三木城への兵糧補給ルートは活きていた。なんとか断ち切りたいが、村重の裏切りで背後を脅かされては迂闊うかつに動けない。さらに頼れる片腕も失ってしまっては泣きっ面に蜂だ。こうして三木合戦は長期化を余儀なくされてしまう。