ついに「最大の不運」に見舞われる
それから半年後の1579(天正7)年4月。信長の嫡男・信忠率いる2万の大軍が派遣され、翌月には東からの兵糧補給ルートを遮断する。徐々に信長軍が押しつつはあったが、別所軍の抵抗も激しく、戦線は膠着。
そんな中、第四の不運が降りかかる。そしてこれこそが、秀吉を失意のどん底に突き落とすことになる。官兵衛と並ぶ、いやそれ以上に片腕として全幅の信頼を置いていた竹中半兵衛が、1579(天正7)年6月13日、36歳の若さで病没してしまったのだ。その墓は秀吉本陣、平井山之上付城の西麓にある。
頭脳で秀吉を支えた半兵衛、死す
半兵衛はその1年半ほど前の1577(天正5)年の冬に発病。肺の病だったといわれている。ちょうど秀吉とともに上月城を攻め落とした頃だ。その後、三木合戦の最中に病状は悪化し、秀吉の勧めもあり治療のため陣を離れ京都へ。「豊臣兄弟!」で描かれるように、織田家の人質になっていた黒田官兵衛の嫡男を救おうとしたという伝承もある。しかし「武士たるもの、戦場で死にたい」と舞い戻ってくる。その時点で既に死を覚悟していたのだろう。
臨終の際、秀吉はその遺体にすがりつき、人目もはばからず泣き崩れたという。いまわの際に半兵衛は、主君・秀吉に対し「いずれは天下を取られるお方だ」と予言したという逸話も残っている。
官兵衛に続いて半兵衛まで。軍師として頼りにしていた“二兵衛”を失った秀吉は、奈落の底に突き落とされた気分だったに違いない。だが、この逆境こそが、秀吉の背中を押したのかもしれない。嘆いてばかりいても状況は打破できない。いつも傍にいた両腕もいない。もはや頼るのは自分自身しかない。三木合戦に決着をつける時が来たのだ、と。
折しも半兵衛が死んだ同月には、隣国の丹波では明智光秀が八上城の波多野秀治を下していた。天下人を目指すのであれば、不運を嘆いている暇はない。死を覚悟した決断こそが、今求められている。半兵衛の戦場帰還が、身をもってそれを教えてくれたのだ。秀吉は泣きながら、そう感じたのではないだろうか。
三木城が長期間にわたって籠城できたのは、外部からの兵糧補給が大きかった。そのルートは複数あったが、秀吉本陣の南麓を横切る東ルートは、1579(天正7)年5月、中継点だった淡河城(兵庫県神戸市北区淡河町380)を秀長が攻略していた。
さらに半兵衛の死後、秀吉もついに本格的に動き出す。同年10月頃には南ルート、明石道を見張る拠点を築く。八幡谷ノ上明石道付城(兵庫県三木市福井)は全長1km近くもある長大な山城で、明石道を見下ろす西側に土塁がビッシリ。こうして次々に補給ルートを断たれ、三木城の兵糧不足は深刻に。「三木の干し殺し」と呼ばれる飢餓状態へと陥った。
半兵衛の死から約半年後、1580(天正8)年1月、ついに三木城を落城に追い込む。別所長治は切腹となった。




