誰も訪れない名軍師の隠れ陣

ところで、三木合戦の際に半兵衛は、いったいどこにいたのだろうか。その場所はもちろん、秀吉のすぐそばだ。平井山之上付城からわずか0.5kmほど北に、平井村中村間ノ山付城(図表2③兵庫県三木市細川町)、伝・竹中半兵衛陣所はある。「伝」とある通り、あくまで伝承。確固たる資料の裏付けはないが、秀吉との関係性を考えると「さもありなん」と思えてくる。

右奥が平井村中村間ノ山付城
撮影=今泉慎一(風来堂)
西から遠望。右奥の小さなピークが平井村中村間ノ山付城

墓地を訪れる人は日々絶えないようだが、陣まで訪れる人はほとんどいないのではなかろうか。県道513号からかなり細い道を入ってゆくため、非常にわかりにくいのもあるだろう。

ひっそりとした森の中に、平井村中村間ノ山付城は隠れるようにしてある。秀吉の片腕、往時は周辺の森も城域だったのだろうが、今や主郭と思われる土塁囲みの円形の曲輪ぐらいしか明確な遺構はない。

平井村中村間ノ山付城の主郭
撮影=今泉慎一(風来堂)
平井村中村間ノ山付城の主郭

最期を迎えたのは陣地か秀吉の下か

直径10mほどだろうか。驚くほど小さい。しかし周囲をしっかり土塁で固めてあるあたり、実に半兵衛らしい気もする。戦線復帰後、最期はここで迎えたのか、それとも秀吉本陣だったのか。確かめる術はない。

主郭の北側、土塁の向こう側を覗くと身がすくんだ。垂直、いやそれ以上に断崖がえぐれていた。

城内断崖の斜面
撮影=今泉慎一(風来堂)
城内から断崖の斜面が全く見えないほどえぐれていた

三木合戦から450年近くの間に、徐々に削られてここまでになったのだろう。半兵衛陣跡まで崩れ去るのも時間の問題かもしれない。迫り来る死期と対峙しつつもこの場に立っていた、半兵衛の面影と重ね合わせずにはいられない光景だ。

享年36歳。竹中家の居城である美濃・菩提山城を遠く離れ、半兵衛はどんな気持ちでこの世を去っていったのだろうか。

竹中半兵衛像がある竹中氏陣屋
写真=photolibrary
竹中半兵衛像がある竹中氏陣屋

【参考記事】信長でも秀吉でもない…天才軍師・竹中半兵衛が守りをガチガチに固めた山城を息子から献上された武将の名前

【図表3】戦国の城・5技能採点表「平井山之上付城」
【関連記事】
サルでもハゲネズミでもない…外見にコンプレックスを抱える秀吉が信長に付けられた「もう一つの呼び名」
地方衰退の一番の原因は「人口減少」ではない…山口の超富裕層が「住民税43億円」をまるっと抱えて移住した理由
石田三成と戦っていないのに関ヶ原合戦後に大出世…徳川家康が厚い信頼を置いた「戦国最大の悪人」
「秀吉と一緒になるのがイヤ」ではない…お市の方が柴田勝家との自害を選んだ"現代人には理解できない"理由
新大阪駅から15分なのに巨大廃墟がそびえる…「消えた終着駅」が映し出す昭和のニュータウンの栄枯盛衰【2025年8月BEST】