秀吉(池松壮亮)と弟の秀長(仲野太賀)が播磨攻略で苦戦する様子を描く「豊臣兄弟!」(NHK)。兵庫県の戦場跡を訪ねた今泉慎一さんは「淡河城では秀長が攻略できずに一度撤退。城主は『牝馬の計』という奇策を使ったとも言われる」という――。
秀長に特命「兵糧ルートを断て!」
第17回:淡河城(兵庫県神戸市)
秀吉・秀長の豊臣兄弟の生涯において、最も苦戦した戦いは? と問われれば、間違いなくそれは「播磨攻め」の三木合戦だろう。なんとか三木城(図表1①兵庫県三木市上の丸5)に籠る別所長治を下したものの、2年にも及ぶ長期籠城戦、荒木村重の謀反、そして竹中半兵衛の死と、払った犠牲も相当のものだった。
三木合戦が長期戦となったのは、城外からの兵糧補給ルートがあったことにある。逆に言うと、それを断つことができたので、ようやく三木城を飢餓状態、俗に言う「三木の干し殺し」に追い詰めることができた。補給ルートは時期により複数あったが、そのひとつが、東に伸びる湯の山街道。現在の三木市エリアとの境界あたりに立つ城が淡河城(図表1②兵庫県神戸市北区淡河町380)だ。
この東の兵糧ルートのとば口にあたる淡河城は、1579(天正7)年5月に秀長が攻略していた。ただしこの時、秀長は一度は、城を守る三木方の淡河定範に敗れている。前月、織田信長は嫡男・信忠率いる大軍を派遣しており、情勢はおそらく、織田方に圧倒的に有利だったはず。少なくとも、兵数においては大軍で寡兵を攻める形だったのは間違いないだろう。
にもかかわらず、秀長の生涯で唯一ともいわれる敗戦を喫してしまったのはなぜなのか。
城造りに最適の河岸段丘
神戸市内といっても、旧淡河町は北西外れの農村地帯だ。かつては宿場も構えられていた盆地を見晴らす、比高30mほどの河岸段丘の突端に城はある。
城があるのは、道の駅淡河のすぐ西側。確かに麓から見上げると急峻で、いかにも「川の浸食作用によって削られた断崖」の様相だ。比高の割には、なかなか攻略するのは大変そうな切岸だ。切岸は通常、人工的に削って斜面の角度をより急にするが、この城の場合は、ほとんど天然そのもののようにも見える。



