1945年4月7日、戦艦大和は沖縄特攻作戦で撃沈された。だが、九死に一生を得て生還した乗組員たちはすぐに故郷へ帰れたわけではない。大和沈没という軍事機密を守るため隔離され、冷遇された。ジャーナリストの佐田尾信作さんによる『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』(集英社新書)より、生還者たちの証言を紹介する――。(第1回)
戦艦大和の最後
戦艦大和の最後(写真=Date Chef/CC-Zero/Wikimedia Commons

国の嘘を守るために使い捨てられた命

小島清文きよふみ(※)の軍歴から気付く重要なことがある。人の命は軍機(軍事機密)より軽いという、軍隊の不条理である。

※海軍第三期兵科予備学生として少尉に任官し、戦艦大和の暗号士としてレイテ沖海戦に従った人物

小島の評伝『「不戦兵士」小島清文』(永沢道雄・著、朝日ソノラマ、1995年)によると、レイテ沖海戦から呉に帰港した大和の乗組員たちは半舷上陸が許されるまで一週間足止めされ、海戦については厳重な箝口令かんこうれいが敷かれたという。

「消耗品のような臨時雇い」の予備学生出身士官は軍部から危険視されていたうえ、暗号士だった小島は海戦の顛末てんまつを知り尽くしている。戦局が悪化する中でのルソン島への転任は「死んでこい」というのに等しかった。それが最も効果的な口封じだったのだ。

大和だけではない。「おやじは瑞鶴ずいかくに乗っていて生きて還ったが、しばらく軟禁されていたらしい」と山口県光市で窯元「椿窯」を営む上田達生から聞いたことがある。瑞鶴はやはりレイテ沖海戦のエンガノ岬沖海戦で沈没した空母である。

大和沈没を隠し、隔離された生存者

左舷に大きく傾斜した飛行甲板に乗組員が密集し、訣別けつべつの「瑞鶴万歳」を三唱しているという貴重な写真は今見ても衝撃的だ。そして救助された生存者は防諜ぼうちょうと残務整理のため呉湾内の三ツ子島へ収容されたと神野正美・著『空母瑞鶴 日米機動部隊最後の戦い』(光人社NF文庫、2008年)にある。

だが、収容された生存者が果たして何人無事に終戦を迎えたかは分からないという。沖縄に向かう大和に転任を命じられるなど、前途はまたも戦場だったからだ。瑞鶴関係者が戦後集まるのは1977(昭和52)年の読売新聞紙上での「呼びかけ」を待たなければならなかった。

ミュージシャンでもある上田は高石ともや、笠木透といった反骨の歌い手とともに活動してきたが、その奥底に彼の父の瑞鶴の体験があるのかもしれない。現在の三ツ子島は真っ白な小山が印象的で、メキシコ産の工業用塩を貯蔵している。

大和の話に戻ると、鬼内きない仙次のルポ『島の墓標 私の「戦艦大和」』(創元社、1997年)には沖縄特攻作戦から辛くも佐世保に帰港した駆逐艦雪風が負傷者を佐世保海軍病院浦頭うらがしら分院に隔離したと記されている。大和沈没という機密が漏洩ろうえいしないためだ。