軍医に「死亡場所は明記するな」と命令
軍医の一人は大和乗組員の死亡診断書を書くよう命じられたが、「死亡場所は沖縄などの地名を明記してはいけない。ただ南西諸島とか西太平洋とかに留めるように」と念を押された。軍医は無謀な作戦に対する怒りに手が震え、思うようにペンが走らなかった―と鬼内は描写している。
また、同書の中の証言によると、地元の村人は全員神社の境内に参集するよう告げられ、憲兵から「これからは、海の方を見んな」とにらみ付けられた。海の方で団平船(石炭や土砂などを運ぶ船)が岬寄りを隠れるようにして近づき、木造桟橋に着いた。上陸する兵は前か後ろか分からないほど黒かった。彼らが大和沖縄特攻作戦の生還者、「泳いだ人」たちだったのである。
ハウステンボスの設計などで知られる池田武邦(海軍兵学校72期)は巡洋艦矢矧に乗り組んで沖縄特攻作戦に従い、沈んだ矢矧から泳いで駆逐艦冬月に救助されたが、佐世保に着いてもやはり「機密保持」のために上陸を許されなかったという。
池田に取材した読売新聞記者井川聡の『軍艦「矢矧」海戦記 建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社NF文庫、2016年)にそうある。同書によれば、池田ら生存者は佐世保市街地の満開の桜を横目で見ながら佐世保海軍病院浦頭「消毒所」に監禁収容され、邪魔者扱いされながら残務整理を行った。
生き延びた仲間は「特攻部隊」行き
一週間がたってようやく外出許可が出たが、新しい配置は決まらない。もはや池田に乗るフネはなく、1945(昭和20)年4月の終わりに拝命した大竹市の海軍潜水学校への教官としての赴任に際しても暗たんたるものがあった。潜水学校とは名ばかりで、実際には特攻隊員養成の教官だったからだ。
沖縄特攻作戦で沈められた駆逐艦濱風、同霞の池田の仲間の航海長たちもまた、特殊潜航艇海龍の部隊に送り込まれた。事実上の特攻部隊であり、乗るフネのない日本海軍の悲しい結末だった。
僕の父と手紙のやり取りがあった八杉康夫も「泳いだ人」だった。自伝『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』(ワック、2005年)から大和沈没以降の八杉の過酷な体験をひもとく。
相次ぐ爆撃や雷撃によってほぼ90度まで傾いた大和から、八杉は海に飛び込んだ。
甲板ではなく艦橋から飛び込んだが、大和が傾いたことにより、海面まで高さ1メートルほどしかなかったという。すぐ大和が引き起こす巨大な渦に巻き込まれ、もう終わりかと観念した時、深い群青色の海に突然、オレンジ色の強い閃光が走る。
火薬庫に引火したと思われる大和の水中爆発によって八杉はかえって海面に押し上げられ、一度失った意識が戻った。米軍機の機影は消えたが、大爆発で真っ赤に焼けた艦体の破片が海面に降り注ぎ、泳いでいた乗組員が一瞬にして頭を割られ、両足や手首をもがれる惨劇が起きた。


