「命との格闘」105人が救助された
西崎は『「雪風」に乗った少年』の中で「『大和』生存者救助の2時間は、命との格闘だった。『雪風』が救助した『大和』生存者は、105名。目の前にある一つの命を一本のロープでどう助けるか、それが全てであり、その時の私には、過去も未来もなかった」と語っている。僕の父と同じ1927(昭和2)年に生まれた、その西崎もすでにこの世の人ではない。
一方の八杉は救助された雪風に乗って佐世保に帰投した後、船に乗せられた。途中の検疫所のようなところに負傷者は搬送され、八杉たちは人気のない岸壁で降ろされて木造兵舎の大部屋に放り込まれた。食後に食器を片付けに来た兵隊にここはどこかと尋ねると「横瀬海兵団です」と言ったきり逃げていく。
横瀬とは西彼杵半島にある現在の長崎県西海市西海町横瀬郷のことで、今は米海軍の貯油所があるようだ。「横瀬海兵団」とは佐世保海兵団の出先が横瀬にあったという意味だろうか。先の鬼内のルポでは負傷者は佐世保海軍病院浦頭分院に送られたとあり、元気な者とは収容先が分かれたに違いない。
生き残った罪悪感に苦しむ
八杉たちは何もしないでいいからぶらぶらせよと告げられ、事実上軟禁されていたと後で知る。「大和沈没を口外するな」とくぎを刺されることもなかった代わりに、敗残兵がそれを口にするような空気もなかったという。
「死に損なった、もうしわけない」という気持ちだけだったと回想している。その後、20人ずつに分かれて軍用列車ではなく一般の列車で呉に戻った。これも大和沈没を秘匿する意図だったが、母親は呉まで面会に来ていて驚いたという。祖母が突然「康夫がたらいに乗って帰ってくる夢を見た」と言い出したので面会に来たのだそうだ。不思議な話だと思ったという。
だが母親との間でも大和の話は一切口にしなかった。そして1945(昭和20)年6月、八杉は呉海兵団の23大隊への転属を命じられた。残った駆逐艦や巡洋艦などの名前を挙げて、フネに乗りたいと訴えたが無駄だった。すでに動けるフネはなく、重油もなかったため、命令に従うしかなかった。


