秀吉は支援できず、尼子氏は自刃

秀吉は、三木城の攻撃を継続させつつ、いったんは自らの手勢を率いて尼子軍支援のため、上月城の向かいにある高倉山に進出した。しかし、大軍で上月城を包囲した毛利軍は陣城を築き、空堀や塹壕を掘り、塀を巡らして柵や逆茂木で防備を固める。さらに連日、法螺貝や太鼓を鳴らして山上への威嚇行動を行い、兵糧攻めで尼子軍の戦意を喪失させた。

播磨にはさらに織田の軍勢が到着したが、信長は三木城の攻略と毛利軍の足止めを優先。このため秀吉も、目の前にある上月城に手を出すことはできず、援軍が期待できない尼子軍は絶望的な状況に立たされる。

やむを得ず高倉山の陣を引き払うことになった秀吉は尼子軍に「上月城を放棄し脱出せよ」という書状を出したが、尼子主従はあくまで徹底抗戦を選んだという。

尼子勝久と山中鹿之介の追悼碑
撮影=今泉慎一(風来堂)
上月城下に立つ尼子勝久、山中鹿之介の追悼碑

ついに7月1日、尼子軍は城兵の助命を条件に開城・降伏し、尼子勝久・尼子氏久・尼子通久、そして勝久の嫡男である尼子豊若丸らは自刃した。尼子再興軍の中心的人物であった山中鹿之介も毛利軍の捕虜となり、護送される途上、殺害された。こうして70日に及んだ「第二次上月城の合戦」は幕を閉じ、武門としての尼子氏は完全に滅亡した。そのとき、秀吉はどんな心境だっただろうか。

法橋玉山画『絵本太閤記』
法橋玉山画『絵本太閤記』3巻(国書刊行会)大正6年(1917)、 国立国会図書館デジタルコレクション

二度も血なまぐさい戦いの舞台となった上月城。その跡に立ってみると、現在でも周囲を田畑に囲まれたのどかな風景の中に、武将の誇りをかけた男たちの無念がさまよっているようにも感じられた。

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