信長の理不尽な処断に光秀は…
主君の信長は、安土まで連行されてきた波多野三兄弟を、なんと磔にして殺してしまった。信長はよく「戦国一の合理主義者」といわれるが、もしそうであれば、光秀の先を見据えた選択に同意したはず。しかし、この時の信長は、そうではなかった。時に、非合理で非情な決断を下すのもまた、信長の一側面で、革命児たる所以でもある。
信ぴょう性はかなり薄いのだが、八上城の戦いにはこんなエピソードがある。波多野三兄弟を連行する際、光秀は母・お牧を人質として城内に残る波多野軍に預けていたというのだ。つまり、「悪いようにはしない。俺を信じてくれ」ということだ。
ところが信長は真逆の決断を下し、八上城に残されていた母は、無惨にも元城主と同じ運命をたどったという。その現場とされるのが「はりつけ松跡」だ。本丸から北東に伸びる尾根、馬駈場あたりにある。
「跡」とある通り松は現存せず。というか、そもそも、すでに大将を失い落城寸前の相手に対し、わざわざ人質を差し出す必要があるだろうか。
光秀の恨みが深かったから噂が?
ただし、こうとも考えられないだろうか。信長は、光秀の意に反し非情な決断を行った。今後のことも考えた、理にかなった判断を無碍にされてしまい、光秀としては憤懣やるかたない。そんな光秀の心情をより情念的に表すために、「人質として預けていた母まで殺された」という伝承が生まれたのではないか。信長の波多野兄弟の惨殺それほど光秀にとって想定外で「裏切られた」と感じられた行為だったのだ、と。
本能寺の変が起こるのは、八上城の戦い終結から3年後のことだ。光秀が「信長討つべし!」と決意するには、いくつかの要因があったはず。八上城の戦いでの信長の“裏切り”もまた、そのひとつだったのかもしれない。




