信長の理不尽な処断に光秀は…

主君の信長は、安土まで連行されてきた波多野三兄弟を、なんとはりつけにして殺してしまった。信長はよく「戦国一の合理主義者」といわれるが、もしそうであれば、光秀の先を見据えた選択に同意したはず。しかし、この時の信長は、そうではなかった。時に、非合理で非情な決断を下すのもまた、信長の一側面で、革命児たる所以ゆえんでもある。

信ぴょう性はかなり薄いのだが、八上城の戦いにはこんなエピソードがある。波多野三兄弟を連行する際、光秀は母・お牧を人質として城内に残る波多野軍に預けていたというのだ。つまり、「悪いようにはしない。俺を信じてくれ」ということだ。

ところが信長は真逆の決断を下し、八上城に残されていた母は、無惨にも元城主と同じ運命をたどったという。その現場とされるのが「はりつけ松跡」だ。本丸から北東に伸びる尾根、馬駈場あたりにある。

岡田玉山画『絵本太閤記』より「八上の城兵、光秀の老母を斬罪にする図」
岡田玉山画『絵本太閤記』より「八上の城兵、光秀の老母を斬罪にする図」、1879年、国立国会図書館デジタルコレクション(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons
はりつけの松跡
撮影=今泉慎一(風来堂)
光秀の母が処刑されたという、はりつけの松跡

「跡」とある通り松は現存せず。というか、そもそも、すでに大将を失い落城寸前の相手に対し、わざわざ人質を差し出す必要があるだろうか。

光秀の恨みが深かったから噂が?

ただし、こうとも考えられないだろうか。信長は、光秀の意に反し非情な決断を行った。今後のことも考えた、理にかなった判断を無碍むげにされてしまい、光秀としては憤懣ふんまんやるかたない。そんな光秀の心情をより情念的に表すために、「人質として預けていた母まで殺された」という伝承が生まれたのではないか。信長の波多野兄弟の惨殺それほど光秀にとって想定外で「裏切られた」と感じられた行為だったのだ、と。

本能寺の変が起こるのは、八上城の戦い終結から3年後のことだ。光秀が「信長討つべし!」と決意するには、いくつかの要因があったはず。八上城の戦いでの信長の“裏切り”もまた、そのひとつだったのかもしれない。

【図表2】戦国の城5技能採点表・八上城
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