人間は一面では語れない。それは政治家も同じだ。第92代内閣総理大臣を務めた麻生太郎氏は、学習院大学卒業後、麻生産業に入社し、麻生セメントの社長を務めた。ライターの栗下直也さんは「卓越した財政感覚も、皇室に最も近い政治家という地位も、筑豊の地を掘って財をなした過去なしには語れない」という――。
東京都内で開かれた会合であいさつする自民党の麻生副総裁=2026年7月1日午後
写真=共同通信社
東京都内で開かれた会合であいさつする自民党の麻生副総裁=2026年7月1日午後

麻生太郎の根っこにある「石炭屋」という矜持

「みんな私を上品だと思ってますよね。どう考えたって、石炭屋が上品なわけないでしょう。石炭屋が上品だったら、あんた、石炭屋なんかやれませんから」

2007年、週刊誌『AERA』の取材で麻生太郎がこぼした言葉である。世間は彼を、吉田茂を祖父に持ち、皇室にまで連なる「華麗なる一族」の御曹司として眺める。だが当人は自分の根っこは政治家でも貴公子でもなく、筑豊の地を掘って財を成した「石炭屋」にあると言ったわけだ。

もちろん、政治家としての親しみやすさを打ち出しただけといえばそれまでかもしれない。だが、実際に麻生という政治家の力の源泉を探ろうとすれば、永田町の論理よりも先に、九州の地の底から湧き出した「金」の流れに目を向けなければならない。そしてその流れはいま、皇位の継承という国の成り立ちにかかわる高みにまで伸びようとしている。

財の出どころの暗さ

麻生家の歴史は、初代・麻生太吉(1857年~1933年)に始まる。福岡・飯塚を本拠に石炭を掘り、その利を鉄道、銀行、電力へと広げ、一代で多角的なコンツェルンを築き上げた人物だ。三井、三菱、古河、住友といった中央の大財閥が筑豊の鉱脈に押し寄せるなか、地元から身を起こした麻生は、貝島、安川と並んで「筑豊御三家」と呼ばれる地方財閥へとのし上がった。創業から150年を超える一族である。

鯰田炭坑
鯰田炭坑(写真=『Japan to-day; a souvenir of the Anglo-Japanese exhibition held in London 1910』より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

筑豊の石炭は、近代日本の骨格そのものを支えた。遠賀川の水運で運び出された石炭は官営八幡製鉄所の高炉を支え、そこで生まれた鉄は軍艦となって、日本を帝国主義の時代へと押し出していく。だが、その富を生み出す労働は過酷をきわめた。納屋制度の下での囲い込み、暴力と低賃金、ガス爆発と隣り合わせの坑道――。戦時には朝鮮人の強制労働も担わされた。麻生が「石炭屋が上品なわけがない」と語ったとき、そこには、財の出どころの暗さを知る者の、醒めた自覚がにじんでいる。

もっとも、初代・太吉は単なる山師ではなかった。晩年の太吉は、むしろ資本が一手に集まりすぎることを強く警戒した人物でもある。農村が飢饉にあえいだ昭和初期、彼は巨大資本の私有を「万悪の源」とまで断じ、欧米流の野放図な資本主義には統制が要ると説いた。地の底から財を成した男が、晩年にはその財の暴走を戒める側へ回る。麻生という家に流れる経済感覚は、思いのほか奥が深い。