吉田茂ゆずりのべらんめえ
若き日の太郎は、いかにも貴公子然としていた。上流階級のスポーツであったクレー射撃に熱中し、運転手付きのロールスロイスで練習場へ乗りつける。当時も今も、そんな射手は彼ただ一人だったと旧友は語る。福岡の実家の敷地には自前の射撃場があり、屋敷には白い手袋をはめた執事が「ぼっちゃま、お帰りなさいませ」と出迎えた。1976年には、クレー射撃の選手としてモントリオール五輪に出場している。
だが、その当人の口から飛び出すのは、母・和子ゆずりのべらんめえ調だった。吉田茂の三女である和子は、紋付き姿でジープを乗り回したという豪傑で、太郎の歯に衣着せぬ物言いは、この母から受け継いだものらしい。だが、その荒っぽい外面は、近づいた者の前ではあっさり溶ける。人懐こく、気さくで、相手の懐へすっと入ってくる。永田町で「半径2メートルの男」と評されるゆえんだ。華麗な血筋、伝法な口跡、そして間近で効く愛嬌。この入り組んだ落差こそが、麻生太郎という人物の地金である。
ところが、32歳で麻生セメントの代表取締役に就いた太郎を待っていたのは、華やかさとは無縁の修羅場だった。石炭から石油へのエネルギー転換のなか、炭鉱は次々と灯を消していく。3000人を超える「ヤマの男」たちを職場から去らせる非情を、彼は若くして引き受けた。
経営の現実を、彼は理屈ではなく、現場の血で覚えたのである。麻生はやがて戦後最長の財務大臣として長く国の財布を握り、数字に厳しく、放漫な財政を嫌った。その手堅さは、永田町仕込みではない。閉山の現場で刻まれたものだったのだろう。
華麗なる一族を生んだ装置
麻生家の財は、やがて壮大な「閨閥」の中心に据えられていく。母方の祖父は吉田茂。妹の信子は三笠宮寛仁親王に嫁ぎ、一族は皇室にまで連なった。政・財・官、そして「名誉」の象徴たる皇族までを重層的に結ぶ、日本屈指の閨閥である。
その縁戚の網は歴代の宰相にとどまらず、日本を代表する企業の創業家から、はては昭和天皇にまで届いた。そして、この壮麗な網を底で支えていたのは、ほかでもない筑豊の石炭が生んだ財である。政の権力と財界の富とを幾重にも縫い合わせる結び目に、麻生家の金が確かに座っていた。
こうした閨閥には、かつて別の顔があったとしばしば指摘される。家柄を問わず、試験を勝ち抜いた俊英を婿に取り込む――閨閥は、いわば実力者を体制の内側へ吸い上げる装置でもあり、地方の貧しい秀才にも、名家へ婿入りして栄達する道は開かれていた。
その典型が、ほかならぬ麻生の祖父・吉田茂である。土佐の自由民権家の家に五男として生まれた吉田は、横浜の貿易商の養子から身を起こし、東京帝大を出て外交官の道へ進んだ。そして、明治の元勲・大久保利通の血を引く牧野伸顕の娘を妻に迎えることで、名門の中枢へと食い込み、宰相にまで上りつめる。絵に描いたような立志伝である。その吉田が、自らの娘を筑豊の炭鉱財閥・麻生家へ嫁がせた。麻生太郎の母、和子だ。

