実は政治には淡白だった家系

意外なことに、麻生家はもともと政治に前のめりな一族ではなかった。太吉も、御三家を組んだ安川敬一郎も、経済人としての動き方は突出していた。

麻生太吉
麻生太吉(写真=日本工業倶楽部『会員追悼録』/国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

1年の多くを東京や大阪で過ごし、政官界の要人や中央財閥と渡り合い、遠賀川の改修や石炭輸送のコスト改善を働きかけて回る。だが、その奔走はどこまでも事業を伸ばし、地元に利を落とすためのもので、政治の表舞台へ自ら踏み込むことには、むしろ及び腰だった。

それでも業界や郷里から推されて議席に就き、国家の権力と関わりながら、本業を太らせ、ついでに地元を潤していく。安川が後の九州工業大学や安川電機の母体を築き、麻生がセメントから教育・医療事業などいまの麻生グループへと手を広げたのも、その流れのなかにある。彼らはまず産業人であり、政治家であることは、その次にすぎなかった。

運命を変えた弟の遭難

太郎自身も、はじめから政治を志した男ではない。

麻生家には、太郎の弟・次郎がいた。周囲の証言によれば、勉強ができて目立っていたのはむしろ弟のほうで、衆院議員だった父・太賀吉の跡を継いで政治家になるのは次郎だろうと誰もが見ていたという。

長兄の太郎は超然と構え、弟の出来のよさに対しても「いやぁ、あいつはよくできるんだ」と、屈託なく笑っていたらしい。家業を継いで実業家として愉快にやっていく――太郎が思い描いていたのは、案外そんな人生だったのかもしれない。

ところが、その次郎が早世する。大学のヨット競技の最中、三浦半島の沖でしけに巻き込まれ、海に消えたのだ。弟の死が、太郎の運命を決定づけた。気楽な跡取りで終わるはずだった長兄が、いつしか家を、やがては政治の重みまでを、一身に背負わされる。麻生太郎の数奇は、この一点から静かに始まったといってよい。