※以下原稿内では、敬称を省略しています。
50歳を前に135キロのベンチプレスをあげる
2026年4月6日、ゼンショーホールディングス(HD)の創業者である小川賢太郎が77歳でこの世を去った。今年1月に体調を崩し、そのまま帰らぬ人となった。
一代で牛丼チェーン「すき家」や寿司チェーン「はま寿司」を展開し、2025年3月期には国内の外食企業で初めて連結売上高1兆円の大台を超えていた。日本の外食産業を牽引してきた巨星が、静かにその生涯を閉じたのである。
生前の彼が見せた「A面」は、壮大な青写真を強引に現実へ落とし込みながら、次々とM&A(合併・買収)を繰り返し、外食産業に君臨したカリスマ経営者としての顔だろう。
一方、彼の「B面」をめくると、挫折と敗北にまみれた元・全共闘の闘士の姿が見えてくる。ライバルに怨念に近い対抗心を燃やし続け、50歳を前に135キロのベンチプレスを挙上してのける。なんとも人間臭く憎めない「ガキ大将」の素顔が浮かび上がる。
小川がいかにして巨大外食帝国を築き上げ、そして宿敵・吉野家を超えたのか。その奇想天外な軌跡を辿ってみたい。
革命家→港湾労働者→吉野家
小川の原点は、1960年代の学生運動にある。東京大学に入学した彼は、東大闘争の渦中でクラスの代表として自治会代議員となり、全共闘運動に身を投じた。体制批判にとどまらず、「自分の内にあるピラミッド構造も批判しなければならない」と、自らのエリート意識を問い直して大学を中退したのである。
日本で革命を起こすことを夢見た小川は、無党派の社会運動家となり、やがて「重労働がいい」という理由で横浜港の港湾労働者となる。「ハードワークをやってない人間は、労働者の中での存在感は軽い」という生真面目な実践主義によるものだったというから恐れ入る。その精神を貫き、桜木町の居酒屋で労働者のオルグ活動に勤しんだが、時代が経済競争へと向かっていた。小川が革命をいくら叫んだところで、多くの人にとっては「物語」に過ぎず、諦めざるをえなかった。
夢破れた小川が次に目をつけたのが、外食産業だった。食は誰にとっても欠かせない。新聞の求人広告を見て、1978年に牛丼チェーンの草分けである吉野家に入社する。あの誰もが知る「吉野家」である。
店長から経理部次長へと出世の階段を駆け上がったが、吉野家は経営危機に陥り、1980年に会社更生法を申請する。

