「吉野家倒産時の件が許せない」
小川の吉野家への執念はすさまじかった。2000年代前半、すかいらーく創業者の横川竟から外食の業界団体(日本フードサービス協会)への入会を勧められた際、日経新聞の記事によれば、小川は「吉野家倒産時の件が許せないし、入りませんよ」と一蹴している。
打倒・吉野家に燃える小川に千載一遇のチャンスが訪れたのは2000年代初頭、米国でBSE(牛海綿状脳症)が発生した時だ。吉野家が米国産牛肉にこだわって牛丼の出店ペースを落とす中、小川は「追い上げるチャンス」とばかりにいち早くオーストラリア産などに調達先を切り替え、営業を再開した。この一手が勝負を決定づけ、2008年にはついに国内店舗数で因縁の吉野家を抜き去った。
吉野家を圧倒的な規模で凌駕した後の2010年代、小川の視線は「打倒吉野家」から「世界戦」へと切り替わる。
2014年頃、因縁の相手である吉野家HDの安部が会長を退任した時期に、パーティーの席で顔を合わせた際には、自ら安部に歩み寄り握手を求めた。小川にとって吉野家はもはやライバルではなくなっていたのだろう。
「奇人変人しか起業なんてできない」
ここで、小川賢太郎という人物の極めて特異なキャラクターに触れておきたい。
射るような眼差しの持ち主で、メディアの前でも感情を露わにせず、独特の威圧感を漂わせる人物だったことは広く知られている。
社長室にはトレーニング機器が鎮座しており、100キロのバーベルを事もなげに押し上げた。それだけでも常人離れしているが、米国人の本で「一流の運動選手はベンチプレスで135キロ上げなければならない」と読めば、本当にそれに向かって猛烈なトレーニングを開始し、2年がかりで50歳を前に135キロの挙上までやり遂げてしまった。
思い込みの激しさは筋金入りで、小学生の時には「米国人のような体になるにはパン食がいい」と思い込んで母親にパンばかり作らせていた(後にコメの優秀さに気づく)という。
さらに強烈なのが、彼の「被害妄想」すれすれの思考回路である。BSE騒動時、ゼンショーが米国産牛肉を避けて豪州産などを使っていた際、小川は取材時に真顔で漏らしていた言葉が残っている。
「あのとき米国に滞在していたが、情報機関が俺のことを嗅ぎ回っている感じだった」
「米国は俺を警戒しているからな」
一介の牛丼チェーンの社長をCIAがマークするわけがないのだが、小川は本気だった。小川自身、「奇人変人しか起業なんてできないんだよ」と笑い飛ばしていたが、過剰なまでの自己認識と常在戦場の感覚こそが、小川を前進させ続けた強烈なエンジンだったのは間違いない。

