ゼンショーに込めた3つの思い

この経営再建を巡る主導権争いが、後の小川の人生を決定づける。再建の方向性を巡り、後に吉野家の社長となる安部修仁が属する陣営と、小川が支持する陣営が真っ向から対立した。

小川側は敗れ、吉野家の大株主だった新橋商事の外食部門に移籍する。だが、不動産管理業を本業とする新橋商事と、「今晩物件を見れば翌日には手付けを打つ」外食業のスピード感は致命的に噛み合わなかった。

「同じ苦労をするなら、すっきりした形でやりたい」――後年、日経新聞夕刊の連載「人間発見」(1999年)で本人が振り返っている。

吉野家での主導権争いに敗れて2年後の1982年、33歳の小川は仲間3人と資本金500万円で起業する。社名は「ゼンショー」。「事業を始めたからには全部勝つ」という「全勝」、善き商売をする「善商」、そして「禅の心」の三つの意味を込めた。

とはいえ、スタートは惨めだった。生麦駅近くのトタン屋根の2階建て、家賃15万円の倉庫の一角に、角材とベニヤ板で事務所を作った。全共闘時代に角材を扱い慣れていたからこそのDIYである。机代わりの段ボールの上に電話を一本置いただけの殺風景な事務所が、売上高1兆円企業の原点だった。

牛丼店なのにカレーも中華丼もある

資金もないため、1号店は設備資金のいらない持ち帰りの弁当屋から始めた。小川自ら夜番に入り、翌日の昼過ぎまで働き詰めた。車を運転して帰る時には眠さのあまり、信号待ちのたびに片目ずつつぶってやり過ごしたという。

資金繰りも楽ではなく、給料日が近づくたびに気が重くなり、「サラリーマンは気楽だ」と痛感する日々だった。しかし、小川は苦境にあっても決して志を低くすることはなかった。創業時から「やるからにはフード業で世界一を目指す」と宣言していた。

ゼンショーは創業の年の秋に牛丼の店を出す。この店が「すき家」の前身となる。吉野家が都市中心部のカウンター席で男性客を高速回転させるスタイルだったのに対し、小川は郊外型でテーブル席を主体にし、家族連れを取り込む戦略に出た。メニューも牛丼だけでなく、カレーや中華丼など多様化させ、吉野家のメニューの隙を突いた。

牛丼
写真=iStock.com/kuppa_rock
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