土中に産みつけられるトノサマバッタの卵を掘り起こして焼き殺した
バッタの生態についても触れておこう。特にバッタとイナゴは混同しやすい。バッタとは「直翅目バッタ科(蝗虫科)」に属し、その総称を指す。トノサマバッタもその一種である。イナゴはバッタの仲間であり、直翅目バッタ科イナゴ属の昆虫を指す。
明確な違いは、喉元の突起の有無だ。イナゴの喉のあたりには小さな突起状のものがあるが、バッタにはない。イナゴは古くから食用とされてきた歴史があり、特にコバネイナゴが佃煮などに利用されてきた。
蝗害を引き起こすのは、主にトノサマバッタやハネナガフキバッタ、サバクトビバッタ、などの一部のバッタ類。通常、バッタは緑色の体をした「孤独相」と呼ばれる状態で、単独で行動する。だが、バッタの個体密度が高くなると、「群生相」に変化する。すると①体色が黒っぽくなって、羽が伸びる②食欲旺盛になる③飛翔能力が高まり④繁殖のスピードも増す――などの変異をもたらす。
ひとたび、蝗害が発生すると農作物被害を引き起こすだけではなく、食糧不足や水不足を招き、人々を飢餓状態に陥らせることもある。水不足を招くのはバッタの死骸が井戸や川に入り、水を腐らせるからである。
この明治初期の蝗害のピークは、1883(明治16)年から1885(明治18)年にかけて。東京から農商務省の役人が調査と対策のために、たびたび現地を視察した。
開拓民にとっては恐怖でしかないバッタの襲来は、1885(明治18)年の長雨によって、ようやく終息する。羽が濡れたバッタが飛べなくなり、地面に折り重なって共喰いを始めたのだ。
明治新政府は本州への飛蝗を食い止めるため、そして開拓者の意欲や希望を失わせないために、駆除のための資金5万円(現在の貨幣価値にすれば、およそ1億円)を拠出。この時に、米国やヨーロッパ、中近東で実施されていた防除法を参考にしたという。
こうして、作られたのがバッタ塚である。バッタ塚は、土中に産みつけられるトノサマバッタの卵を掘り起こして焼き殺し、その表面に土を被せて半球状にし、固く押し固めたもの。幼虫や成虫も捕らえて埋めた。
1874(明治15)年と1875(明治16)年の2年間で掘り出されたトノサマバッタの卵の容量は1339m3、幼虫で400m3に達したという。バッタの数に換算すると300数十億匹に相当すると言われているから、驚愕の数である。ここ新得ではおよそ100坪ごとに1〜2カ所、作られた。
1966(昭和41)年に新得町が実施した調査によると、約5ヘクタールの土地に高さ1メートル、直径4〜5メートルの塚が70カ所以上確認された。新得町では2012(平成24)年に指定文化財に登録し、保全に務めている。しかし、現在では完全に森に飲まれてしまっている。年々、雪や雨に侵食されている様子が窺える。定期的に下草を刈って整備しなければ、その存在は完全に忘れ去られてしまうだろう。