遊廓・吉原で働く女性たちはどんな一生を送ったのか。ひとにぎりの恵まれた遊女は年季が明ける前に高額で身請けされたが、多くの遊女たちは原則27歳まで妓楼に縛られ、その後も花街から離れられなかったという。作家・永井義男さんの著書『図説 吉原事典』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。
年季が明けたあとも「苦界」は続いた
遊女の経歴には、幼いころに売られて禿として育てられ、その後に客を取るようになる場合と、売られてきてすぐに客を取る場合の二通りがある。
一般に、吉原の遊女は「年季は最長10年、27歳まで」という原則があったが、あくまで原則である。
禿から始まった女は、客を取り始めてから10年が適用されたため、妓楼にいる年月は10年をはるかに超えた。
しかも、妓楼で生活していくなかでいろいろな出費を強いられる。結果として、遊女はさまざまな借金を背負うことになった。
その借金を返すため、年季が明けたあとも数年、働かなければならないこともあったし、鞍替えという形でほかの妓楼に売られることもあった。
手形をもらい、晴れて外の世界へ
明確な統計はないが、健康な体で無事に年季明けを迎える遊女は少なかったと思われる。年季が明けないうちに、20代で病死する遊女が多かった。
梅毒や淋病など性病の感染、密集した生活をしているため労咳(肺結核)など伝染病の感染、栄養不良、過労などが死因であろう。
ようやく年季が明けた遊女には、楼主が身売り証文を返却し、つぎのような文言が書かれた手形を渡した。
支配家持誰抱遊女誰事誰
今度相定申候季明候に付門外身寄之者へ引渡し遣し候間大門無相違可被通候事
○月○日 名主 印
大門 四郎兵衛どの
切手を持たない女は四郎兵衛会所の番人が見咎めて、大門(※)から外には出さないからである。こうした手形を切手の代わりに示して、年季が明けた女は晴れて大門から外の世界に出て行った。
※「お歯黒どぶ」でかこまれた吉原の唯一の出入り口
図表1は、遊女の一生をおおまかに図示したものである。