本能寺の変という未曾有の事態を、秀吉はどう捉えていたのか。歴史家の磯田道史氏は「残っている書状を見るに、秀吉は主君・信長の死を、即座に自身の飛躍のための天与のチャンスだと捉えていた。天下人になったのもうなずける、状況の適確な見定めといえる」という――。(第3回)

※本稿は、磯田道史『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』(文春新書)の一部を再編集したものです。

歌川貞秀作『太平記物語』の一場面
歌川貞秀作作「太平記之内山崎合戦競先鋒図」。1582年の山崎の戦いの決定的な戦いの前の軍議の様子が描かれている。(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉を覚醒させた信長からの「重荷」

信長と秀吉の関係をみていると、経団連の会長だった土光どこう敏夫さんが唱えていた「重荷主義」を連想します。

土光さんは「私の履歴書」で、「私はだいたい、人は能力以上に働かなければならないという重荷主義を信奉する。その人が100キロのものが持てるとすれば、120キロのものを持たせ、120キロが持てれば、140キロを持たす。(略)人間尊重とは、ヘビー労働をかけ、その人の創造性を高めることだ」と書いています。

いま読むとちょっとパワハラっぽくも感じられるかもしれませんが、まさに秀吉・秀長の兄弟は信長による「重荷」によって、異常な進化を遂げたと言えるでしょう。

秀吉が「中国大返し」で毛利に背中を向けて京都に戻っていったとき、なぜ信長の死を知った毛利が秀吉を追撃しなかったのかがよく論じられます。

「追撃しようとする吉川元春に対し、小早川隆景が止めた」といった説もありますが、現実問題としては、この時の毛利家には、秀吉を追撃する意図も理由も能力もなかったと考えられます。