襲撃時、光秀は本能寺にいなかった

そもそも光秀は、信長襲撃の際にも、自分は本能寺に行っていません。

最近注目されている『乙夜之書物いつやのかきもの』という史料があります。これは江戸時代になって加賀藩(いまの石川県南部)の兵学者である関屋政春がまとめたものですが、これから紹介する話の出どころは、明智の陣にいた斎藤利三の息子の証言ですから、十分検討に値します。

本能寺焼討之図
楊斎延一画「本能寺焼討之図」(画像=ブレイズマン/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

それによれば、襲撃隊を指揮したのは斎藤利三で、光秀自身はかなり南の鳥羽とば(いまの京都市南区・伏見区)にいました。

磯田道史『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』(文春新書)
磯田道史『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』(文春新書)

鳥羽に陣取ることで、丹羽や池田ら大坂にいた四国派遣部隊が京都に来るのを防ぎ、また信長らを討ち漏らした場合の逃走ルートを押さえようとしたと考えられます。

つまり、光秀は自ら信長襲撃の陣頭指揮を執ったわけではないのです。

山崎の戦いでも、光秀の本陣はかなり後方で、先備えの斎藤利三が援軍を送ってくれといっても、なかなか送りませんでした。

もともと2万から4万の秀吉軍に対し、光秀軍は1万から1万6000と数的劣勢は初めから明らかで、光秀としては援軍を送りたくても送れなかった、というのが実状でしょう。

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