信長は当初、秀吉よりも秀長を厚遇した。なぜか。歴史家の磯田道史氏は「ひとつは体格だ。秀長が抜擢された信長の親衛隊である馬廻衆は、小柄な秀吉には向いていなかったのだろう。とはいえ、秀吉は織田家で『使える男』として知られていた」という――。(第1回)

※本稿は、磯田道史『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』(文春新書)の一部を再編集したものです。

紙本著色豊臣秀吉像画稿
紙本著色豊臣秀吉像画稿(写真=公益財団法人阪急文化財団/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

史料に残る秀吉のあまりに“生々しい”就活

尾張に戻った秀吉は、織田信長のところで小者こもの奉公を始めます。その時期には諸説がありますが、18歳で戻ったとすると、それから程なくして織田家に仕えたと考えられます。

一次史料ではありませんが、竹中重門しげかどという武将が寛永8(1631)年に書いた『豊鑑とよかがみ』という回想録があります。

竹中重門の父は、あの竹中半兵衛(重治)で、近江(いまの滋賀県)攻めから三木合戦の最中に病没するまで、秀吉の「参謀役」でした。その嫡男の重門の回想記です。

重門は天正元(1573)年生まれです。半兵衛の子として幼時から、秀吉自身や周辺が語るいくさ語りを直接耳にできた立場です。

父子とも秀吉軍の中枢にいた同時代人の証言ですから、後年の回想とはいえ、大久保彦左衛門『三河物語』と同様、吟味すれば、参考にしてよい史料です。

『豊鑑』には、秀吉がどうやって信長に仕えたかという、いわば就職活動の生々しい様子が描かれています。