誤字を厭わず「即レス」を貫く実務力
また永禄年間には、秀吉は細々とした事務を精力的にこなし、あちこちに手紙を書いているのですが、秀吉の手紙には誤字、当て字が多い。権威ある醍醐寺の「醍」がわからぬ書記には「大」と書かせて、素早く書状を出すのです。大納言でさえ「大なんこ」と秀吉は書いています(桑田忠親『太閤書信』)。
秀吉は形式にこだわりません。スピードにはこだわりました。漢字は書きたがらず、ひらがなが早く書けるので好きでした。御膳は「五せん」と書くクセがありました。
信長が桶狭間で今川軍を破ったのが永禄3(1560)年5月のこと。ここから信長は尾張を統一し、美濃(いまの岐阜県南部)を平定して、永禄11(1568)年の9月には足利義昭を擁立して京都へ歩を進めます。
すると、織田の勢力圏が広がるにしたがって、大量に家来が必要になるわけです。
その人材をどこからリクルートするかといえば、まずは親類縁者に声をかける。弟やいとこ、その友だちと、とにかく伝手をたどって人を集めるほかない。戦後まもなく急速に業務拡大した昭和の企業と同じです。
秀長が織田家に仕えるようになった時期は、まさに織田家の高度成長期だったと考えられます。
兄より弟のほうが「好待遇」だったワケ
その秀長が初めて歴史上に登場するのは、天正2(1574)年7月、伊勢長島(いまの三重県桑名市)の一向一揆です。『信長公記』によると、信長の馬廻として「木下小一郎」が登場するのです。
実は、ここが面白いところで、馬廻衆といえば、信長の親衛隊、旗本に当たります。雑役従事の小者奉公から出発した秀吉よりも、秀長のほうが待遇がいいのです。
この違いには、もちろんすでに兄である秀吉が織田家で「使える男」として知られつつあったことも大きく作用しているでしょうが、秀吉と秀長の父の違いが反映しているのではないでしょうか。
秀吉の父弥右衛門は織田家の足軽とされていますが、足軽の多くは領民のアルバイトです。対して、秀長の父竹阿弥は同朋衆として主君の身の回りで雑事をこなす存在です。
秀長が織田家に就職しようとしたとき、父の奉公歴で縁故が良かったかもしれません。
馬廻衆は、それなりの体格と身体能力がいります。秀吉は多くの史料に「小柄」とあります。一般的な武士の体格よりも小さかったことは間違いないでしょう。

