信長が「長」の字を許したエリート性
一方、秀長については、体格の情報はありません。「史料に書かれていない」のも実は重要で、もし秀長が小柄な人だったら、「兄弟そろって小さい」といった証言が残されたでしょう。そう考えると、秀長は特筆される体格ではなかったのかもしれません。
もうひとつ、秀長が厚遇されていたと考えられる理由は、その名乗りです。実は秀長は、はじめ長秀と名乗っているのです。
先の『信長公記』の記述から1年後の天正3(1575)年11月11日付の文書で、羽柴小一郎長秀という署名が登場します。
ちなみに秀吉は元亀4(1573)年7月20日に、木下から羽柴に姓を改めていました。
この「長秀」が非常に重要なのです。というのも、織田家において、信長の「長」を勝手に名乗ることはできません。信長が小一郎に「長」の一字を使うことを許したと考えるのが自然です。
もちろん、長秀の「秀」は秀吉の「秀」です。信長の「長」が上で、秀吉の「秀」が下という序列も、この名前には込められています。
名前を入れ替え「織田超え」を演出
では、いつ長秀は秀長となったのか。これも非常に面白い。時は下って天正12(1584)年9月、小牧・長久手の戦いの最中なのです。
よく知られるように、この戦いは秀吉と、徳川家康と信長の次男である織田信雄の連合軍との戦いでしたが、ここで初めて「美濃守 秀長」と署名しています。
この改名には秀吉の明確な意向が込められていると思います。織田家由来の「長」と羽柴家の「秀」を入れ替える。それによって、「もう俺たち(羽柴家)は織田家の下には立たないぞ」と宣言した、とも考えられるのです。
翌年、秀吉は従一位関白になって信長の官位をこえました。信長は正二位右大臣です。
このように、秀吉の政治発想力はすごい。信長より上だと、弟の名前を変えて天下に広告したのです。
天下の武将たちが、秀吉と家康・信雄のどっちが勝つのか注目しているときに、これをやりました。実際、天正12年の11月に織田信雄から和睦を求め、家康とも和議を成立させて、小牧・長久手の戦いは終わります。


