散歩コースを特定する驚愕の調査力
秀吉は〈いかにもして宮仕えばや〉、どうにかして信長に仕えたいと思ったのだけど、〈かくいうべくたつきもさらになかりければ〉、取り立てて言うほどの人脈、手づるもない。
すると、信長が川沿いの道を逍遥(散歩)して帰る途中で、「宮仕えの望みあんなると高く宣」った。信長は馬に乗っていたと思われますが、おそらく秀吉は信長の散歩コースを調べて、ここなら声が届きそうだという直訴に適した場所で待ち構えていたのでしょう。
そこで「信長さまに仕えたいー。宮仕えの希望がありますー」と大声で叫んだのです。すると、信長が「我に仕えんや。いかさま思うところもありなん」、お前、俺に仕えたいのか、と応じた。
「少し考えるところもある」と言ったと書かれていますから、信長は最初から、この猿に似た子は何かに使えると直感したのでしょう。
他の史料によると、友達のがんまくという男が先に織田家で使われていて、そのつてを頼ったとの説もありますが、この「川の堤に立って大声で仕官を願ったそうだ」という話は、いかにも秀吉らしいと、織田家中や、後の家来たちの間でも、語り伝えられてきたのかもしれません。
「草履温め」に象徴される異常な賢さ
あるいは、秀吉が楽しく側近に語っていた話で少し盛ってある可能性もあります。現代でも、入社試験で奇抜な回答をしたといったエピソードは、社内で後々まで語り草になったりしますが、秀吉もそうで、入った時から名物男になる資質があったわけです。
秀吉の下働き時代のエピソードとしては、信長の草履を温めた話が有名ですが、この『豊鑑』では、信長がしょっちゅう鷹狩に出るのに、秀吉は〈一日も怠らず、藁沓を、われととりはくようにて物せしが〉とあります。いつも自分の身から離さないような様子で仕えた、と。
そして、〈賢さ、人に勝れぬれば、次第にときめき出で、従者などを持て、木下藤吉郎となん呼ばれし〉と、とびぬけて賢いことが分かってきて、寵愛を受けるようになり、木下藤吉郎という一人前の武士として、従者も持てるようになった、というわけです。
秀吉の存在が一次史料の文書として確認できるのは、かなり後の永禄8(1565)年11月2日になります。坪内利定という武将に知行を安堵した書状で、「木下藤吉郎」と副署しています。
このとき秀吉は29歳ですが、織田家の家臣として、それなりの働きをしていたことがわかります。
