豊臣秀吉、秀長と他の戦国武将は何が違ったのか。歴史家の磯田道史氏は「彼らは『銭の儲け方』のアイデアをすぐに思いつく天才だった。そして、その知恵を、自分たちについてきてくれた人々に分け与えた」という――。(第2回)
※本稿は、磯田道史『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』(文春新書)の一部を再編集したものです。
豊臣秀長(羽柴秀長)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大名。豊臣秀吉の弟。(写真=奈良県大和郡山市春岳院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
秀吉秀長が天下を狙うきっかけになった「天空の城」
天正5(1577)年10月、秀吉・秀長は但馬に攻め入ると、竹田城(いまの兵庫県朝来市)を落とし、秀長が城代となります。
『信長公記』には、竹田城を落とした秀吉が「普請申しつけ」、大規模な城の工事を命じた、とありますから、現在、「天空の城」で知られ、多くの観光客を集めるあの美しい山城は、秀長が手掛けた可能性があります。
現存する竹田城は、天正13(1585)年に赤松家が建てたとされていますが、発掘調査では、階段なども全面張りの石畳となっていたことが分かりました。石垣を積む技術は豊臣家の得意技です。
この竹田城を得たことが、秀吉・秀長にとって決定的に重要でした。それはこの城が近くにある生野銀山の警備の拠点だったからです。
生野銀山を押さえることで、秀吉は天下を狙うことが可能になった、といっても過言ではありません。
これには、戦国大名の財政構造を踏まえておく必要があります。大名たちの経済基盤といえば、まずは領地です。そこから上納される年貢が財政を支え、そこに暮らす領民たちは労役を課したり、足軽として動員したりする人的資源でもあります。
