なぜ高松城の水攻めができたのか

しかし、秀吉にとって茶より嬉しかったと思われるプレゼントが生野銀山です。信長は秀吉に生野銀山の上りを与えたようで、秀吉は莫大な独自財源を手にしたのです。

生野銀山を手にしたのち、天正10年4月には、秀吉は難攻不落とされていた備中びっちゅう高松城を包囲し、有名な水攻めを行います。

5月のはじめから堤防工事を行い、わずか2週間足らずのうちに完成させると、城内まで浸水した高松城は兵糧を絶たれ、6月4日に落城しました。

このとき、秀吉は土囊どのう一俵に付き銭百文、米一升という超高額報酬で、人を集めたという言い伝えが後世にあるほどです。

20カ月かかった三木城攻めと、1カ月余りで終わった高松城攻めで、何が違ったのか。その答えのひとつは、生野銀山です。

高松城の水攻めに要した膨大な戦費は、生野銀山からの収入によるものが大きかったに違いありません。お金がなくては天下は獲れません。秀吉が天下を獲れたのは、この生野銀山をおさえていたのも一因でしょう。

重要文化的景観「生野銀山および鉱山町」奥銀谷地区を市川越しに望む
重要文化的景観「生野銀山および鉱山町」奥銀谷地区を市川越しに望む(写真=Indiana jo/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

支配の条件は「治安維持」と「判の徹底」

このように「銭」に着目して、秀長の文書をみていくと、なかなか興味深いことが書かれています。

たとえば但馬の山口郷の「百姓中」にあてた文書をみてみましょう。日付は5月4日付、年代は不明です。

〈壱所へ奉公人進入、悪党つかまつり候由候、搦捕可令せしむべく注進候、隠置候者、其在所之百姓共、ことごとく可令成敗候、自然おのずからしかり用儀おいて在之者、我等墨付すみつきにて可申付もうしつく候〉

まずは、「奉公人」、秀長の支配下で武家奉公していた者が侵入して、悪いことをしたとのことだが、搦め取って「注進せしむべく候」、こちらに連絡してほしい、匿う者があれば、山口郷の住人でもことごとく「成敗」する、殺します、と書かれています。

これは悪いことをした者は秀長が責任をもって処罰する、という治安の維持を約束したものです。

そして「我等墨付にて可申付候」、秀長の判のあるものだけが命令として効力を持つ、と定めています。