戦国大名はとにかく銭がいる
しかし、たとえば毛利家百十万石といいますが、毛利家の当主が持っている領地自体はそんなに大きくはありません。家臣たちに分け与えなくてはならないからです。
「毛利領」といっても中身は大半が家臣団に配分された土地なのです。
これは兵力についてもいえます。戦国大名とは、家臣団の連合体です。家臣たちはそれぞれ兵を養い家臣団をもっており、それが集合して「武田軍」や「上杉軍」を形成しているのです。
戦国大名は自領の年貢だけでは戦争には勝てません。銭が要ります。ことに鉄砲が普及すると、鉄砲や弾薬などを買い付けなければなりません。
秀吉が得意とした戦場での土木工事にも、「銭」が要ります。そうした軍費は、武将自身が身銭を切るほかありません。
その資金は、どこから調達するのか。ひとつは港のある商業都市を支配下に置くことです。信長が長篠の戦いでみせた鉄砲の大量使用は堺という大商工業地・国際交易港の鉄砲生産を押さえていたからこそ可能になりました。
信長が秀吉に贈った2つのご褒美
そして、もうひとつが鉱山でした。たとえば毛利家の強さを支えていたのは、尼子氏との戦いに勝利して、永禄5(1562)年に手中に収めた石見銀山の銀にほかなりません。毛利元就はわざわざ遺言にも、石見銀山を死守し、軍資金とせよと書き残しています。
当時、生野銀山は石見と並ぶ、日本有数の銀山でした。秀吉・秀長が竹田城を落とし、生野銀山を押さえると、信長はこれを自分の直轄地にします。
この時期、生野銀山関連の文書を見ると、秀吉は自ら信長への銀の上納を担当し、秀長は竹田城城代として、生野銀山に接近する敵を打ち払うガードマンの役割を担っていました。
三木城を落とした秀吉に、信長は二つのプレゼントを与えます。
ひとつは、茶会を開く権利でした。たかがお茶というなかれ、これは信長の「御茶湯御政道」と呼ばれる家臣統制政策でした。
信長は功績をあげた家臣に茶道具を与え、さらに貢献を認めた者にだけ「御茶之湯」、すなわち茶会開催を許しました。
お茶は信長の信頼の証であり、家臣団のランキングを明示するものだったのです。事実、秀吉より先に茶会を許されたのは、嫡男である織田信忠、明智光秀などごく少数でした。
