光秀側を孤立させた「嘘のディテール」
おそらく中川清秀は、本能寺で起きた変事を知り、織田軍団の中国方面指揮官である秀吉に、どうなっているのか、この後どうするつもりかを書状で問い合わせたのでしょう。
秀吉としては、明智を討つために、中川をはじめとする摂津衆を味方に引きつけておかねばなりません。
もし中川たちが、信長、信忠が死んだ、つまり光秀の叛乱が成功したと知れば、光秀側につくこともありえます。
そこで、信長公はまだ存命だ、というフェイクニュースを流して、秀吉側の陣営に引き留めたのです。
中川としては、信長が死んだと聞いていたのに、秀吉は否定して、京から確かな話が届いて信長様は生きているというのです。
これでは中川は光秀側につきにくい。もし光秀側に回ったあと、万が一、本当に信長が生きていたら、ただでは済みませんから、信長健在の情報は、摂津衆に相当な効き目があったはずです。
ここで秀吉が一味違うのは、この嘘情報に、〈福平左(福富平左衛門)三度突き合い、比類無き動にて、何事も無き由〉といかにもありそうなディテールを書き込んでいる点です。
山崎の戦い以前に勝敗は決していた
織田の馬廻衆などを統率する福富平左衛門が敵を三度も打ち払い、比類ない働きをした、としたうえで、自分も城に帰るから、油断なく待っていてくれ、と。
もし後になって嘘だとわかっても、秀吉は「あのときは本当にそういう情報が入ったんだ」としらを切ればいいだけです。秀吉はなかなかズルい。そういう人が天下を獲ったのでしょう。
おそらく、この秀吉からの偽情報は、高山右近ら他の摂津衆にも広まったはずです。
結局彼らは明智討伐軍として、秀吉とともに山崎に向かうことになるのです。
それで、光秀の味方をする者はあらわれませんでした。
いきなり寝込みを襲って主君を討ったのですから、そもそも大義がないうえに、奇襲なので、事前に誰とも同盟工作をできていませんでした。
変のあと、光秀は必死になって、味方してほしいと各所に文書を書き送るのですが、ほとんど誰も応じません。
ともに足利将軍の近くで働き、縁戚関係も結んでいた光秀の“盟友”細川幽斎ですら、「信長様を弔うために髪を落として出家した」という手紙をよこして、逃げてしまいます。
つまり、山崎の戦い以前に、情報戦、外交戦において、光秀はすでに秀吉に負けていたのです。

