本能寺を「天与のチャンス」と定めた
秀吉の文書集を読んでいて興味深いのは、このあとも中川清秀とは、よく手紙を交わしていることです。
そのすべてが残っているわけではありませんが、6月10日付の中川への書状には、〈一両日無音候のところ、御状本望候〉とある。両日、すなわち1日か2日、音信がないだけで、心配になって、手紙が届いてよかった、と書いているわけです。戦を控えた武将のリアルな心情ですね。
そして、明石に着陣したことを、「昨晩、高右(高山右近)の飛脚にも書状を言い伝えた」とあるように、中川と秀吉側の陣営の間では飛脚が盛んに行き来していたことがうかがえます。
11日になると、秀吉は堺の代官で、本能寺の変の際には徳川家康の接待役をつとめていた松井友閑への書状で、〈明智め〉と呼び捨てにして、〈かの悪逆人、首をはね、鬱憤を散らすべく候〉といいます。
光秀を討つのは〈天の与えたるべく候〉、天が与えたものだとしている。つまり、秀吉は明確に本能寺の変を、自身の飛躍のための天与のチャンスだと捉えていたことがわかります。
この状況の適確な見定め、新たな目標設定の早さも、秀吉の大きな特徴といえるでしょう。
光秀の陣地に漂っていた「心理的防御」
秀吉軍は、四国攻めのための派遣部隊として大坂にいた織田信孝や丹羽長秀、そして信長の乳兄弟(母が信長の乳母で、信長の父信秀の側室)でもある池田恒興らと合流し、いよいよ決戦の地、山崎に向かいます。
中川清秀や高山右近はすでに天王山のふもとを押さえて、相手側を包むように進撃を開始、池田恒興らが川手(右翼)に陣取ります。
秀長は黒田官兵衛らとともに山手(左翼)に配置されました。いわば秀吉の直属軍といっていいでしょう。
これに対して光秀側は、猛将として知られた家老の斎藤利三らが先鋒をつとめ、光秀は恵解山古墳を改造して本陣を据えました。
私は現地を訪れたのですが、光秀が非常に消極的だったことが見て取れます。
たとえば濠を古墳から約100メートル西側に掘っているのですが、当時の火縄銃の射程距離からすると少し遠すぎます。
弾に当たることを怖がっているとしか思えない布陣で、光秀の心理は相当に防御に傾いていたと思われます。実際、この墳丘からは変形した弾丸がたくさん出てきています。
