毛利が秀吉を追わなかったワケ

この戦いは、毛利家にとっては織田軍団の侵略に対する防衛戦争にほかなりません。

戦闘が一段落して、「ここからは入ってこない」という境界線が確定しました。消耗も激しく、上原元将のような身内の裏切りの可能性さえも残っていました。

このうえ、リスクの高い追撃戦を戦わなければならない理由は、毛利家にはなかったのです。

実際、高松城の講和の後、毛利家がやったのは、秀吉追撃ではなく家臣統制で、裏切り者への対策や処置でした。

親類のなかにも秀吉と通じた者が少なからず出ました。

裏切った上原元将ものちに変死していますが、家臣の結束と裏切り者の対策のほうが、毛利家にとっては急務だったのです。

天正10(1582)年6月13日、秀吉は山崎の戦いで明智光秀を討ちます。秀吉が備中高松城を後にしてからおよそ9日しか経っていません。

秀吉軍のスピードのみならず、これほどの強行軍の後に決戦を行える戦闘力がいかに凄かったかがわかりますが、ここで注目したいのは秀吉の宣伝戦です。

変の直後に放った“戦略的虚偽”の手紙

高松城を落とした翌日の6月5日付で、秀吉は摂津の中川清秀に対して書状を送っています(以下、書状の引用は『豊臣秀吉文書集』〔吉川弘文館〕に拠る)。

中川は、一時、荒木村重とともに信長に敵対しますが、その後再び織田軍団に加わっていました。

この書状は〈ただいま野殿のどの(いまの岡山市)まで打ち入り候のところ、御状披見ひけん申し候〉と始まります。

つまり、中川清秀から秀吉に書状が送られ、その返事を書いているわけです。

秀吉は次のように続けます。

〈ただいま京よりまかり下り候者たしかに申し候〉、京都より下った者の確かな話によれば、〈上様(信長)ならびに殿様(信忠)いずれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所ぜぜが崎へ御退きなされ候〉。すなわち、信長も信忠も無事に難を切り抜け、近江膳所(いまの滋賀県大津市)まで逃れた、というのです。

もちろん、これは嘘です。

では、なぜ秀吉はこんな嘘の手紙を書いたのでしょうか。