「天下布武」を掲げた織田信長が、京都に入ってから最初にしかけた軍事行動が越前出兵だった。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「味方と思っていた浅井長政が裏切ったため、信長は京都へ逃げ帰ることになった。しかし、この判断には疑問が残る」という――。

※本稿は、本郷和人『軍事の日本史[新装版] お金・戦略・武力のリアル』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

「あとは朝倉を攻めるだけ」と思いきや…

このとき、織田信長は3万人と言われる大軍を率いて越前になだれ込みます。現在の敦賀市にあった金ヶ崎城という城を攻め落とします。越前に入るには必ず防衛拠点である金ヶ崎を通ります。南北朝時代にも戦いが繰り広げられた重要な地点です。

金ヶ崎城を落として敦賀を手に入れ、「さあ、越前平野になだれ込んで朝倉義景を攻めるぞ」といったまさにその時、織田信長のもとに衝撃のニュースが飛び込んできます。自分の妹婿である浅井長政が裏切って信長軍に向け挙兵したのです。

浅井は琵琶湖の東側、今で言えば滋賀県長浜市の小谷城あたりに勢力をもっていた大名家です。浅井を味方につけることによって、信長は岐阜から京都への道、つまり琵琶湖の南側を通る道を安心して往来できるようになりました。信長は浅井家を味方に取り込むために、美人で知られた自分の妹・おいちを浅井長政に嫁がせ浅井と同盟を結んでいたのです。

ところが越前の朝倉を攻めたまさにそのとき、浅井長政が同盟を裏切って織田信長に攻めかかることが知れたわけです。

浅井長政像
浅井長政像(画像=高野山持明院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

3万人を率いる信長を裏切った浅井の戦力

浅井家の規模は実はそれほどのものではありませんでした。というのは、この裏切りのあと信長は浅井家を滅ぼし、その領地をそのまま受け取ったと言われるのが羽柴秀吉です。浅井を潰すとき一番の働きを示した秀吉に対して、信長が「猿に全部やる」とその領地を羽柴秀吉に与えた。小谷城は山城で使い勝手が悪いことから、羽柴秀吉の作った町が今の長浜です。

長浜城を築き秀吉がそこの殿様になった。このときの領地がだいたい十万石ちょっとだと言われています。となると、浅井領はそんなに多くはない。だとすると、浅井家がどれくらい兵隊を出せるかというと、僕がこれまでずっと提唱している「数がすべて」の法則で考えてみても、せいぜい5千人の兵士を出すのが精いっぱいといった程度の領地だろうと思います。実際にはそれぐらいの力しか浅井長政は持っていなかった。

さてここで問題になるのが、地理的な関係です。