兵力で優っていても挟み撃ちが恐かった?

ただ、室町時代に兵站の概念はまだ確立していません。だからこそ、「行った先で略奪すればいい」と上杉謙信は略奪を繰り返したと藤木久志先生は唱えているのです。上杉謙信の軍事行動に兵站という発想はなかった。であればこそ、同時代人である織田信長が、上杉謙信をはじめ、他の武将たちを圧倒するほどの先進性をもって、兵站も視野に入れた軍隊を構想できていたのかといえば、実はそれも考えにくいんですよね。

「うつけもの」と評され、奇想天外さが伝えられる信長ですが、だからといって他の大名たちとはまったく別次元の、いわば近代的な軍事を考えることができたかというと、そう考える根拠は見つけられないのです。

そこでもう一つ、「信長はなぜ逃げたのか」に答える別の考え方として、「挟み撃ちは相当に効く」という仮説その二を立ててみます。

つまり、仮に信長が3万、朝倉が1万、浅井が5千で戦ったとしても「信長軍3万対浅井・朝倉軍1万5千」ですね。相当な兵力差があったとしても、挟み撃ちをされると、兵力差がひっくり返るほど挟まれた方のダメージが大きいのではないか。そう考えると、信長が戦いを放棄してさっさと兵を引いた理由が分かります。

挟み撃ちの効果を科学的に検証する方法

すると今度は、「挟み撃ちという戦術は有効だったのか?」という問いが生まれてきます。

この本の冒頭で申し上げたように、歴史学の中では軍事に関する研究がタブーになってきました。その「学問的空白」をまさに直撃するのです。僕が「まずいなあ」と思っているのがまさにそこです。

例えば、「豊臣秀頼は本当に秀吉の子どもなのか」という問いを立てたとき、僕らが史料をつきあわせて考えたところであまり意味はないですね。それなら現代の産婦人科の先生に聞くのが一番科学的にすっきりします。

僕が産婦人科の先生方に折にふれて聞いたところによれば、みなさん「秀吉が淀殿という女性とのみ、しかも二人も子どもを作れる確率は天文学的な数字になりますよ」という回答でした。つまり、「秀頼は秀吉の子どもじゃなかっただろう」という認識が常識的に導かれます。

それと同じで、挟み撃ちが戦術として効果的かどうかという問題は、机上でああだこうだといっているよりも、科学的に検証できることじゃないかと思うんです。