中国とはどんな国か。笹川平和財団常務理事の兼原信克さんは「かつての中国は今と逆のことを言っていた」という。『中国共産党が語れない日中近現代史』(新潮新書)より、前駐中国日本国特命全権大使の垂秀夫さんとの対談を、一部紹介する――。(第1回/全3回)
天安門
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ヒトラーでも敵わない20世紀最大の殺人者

【兼原】20世紀最大の人道的悲劇は、多分毛沢東の大躍進ですよ。無辜の市民を大規模殺害したホロコーストの代表例と言えば、600万のユダヤ人を虐殺したヒトラーとカンボジア人口の4分の1(170〜180万)を虐殺したポル・ポトですが、スターリンと毛沢東も20世紀に非常に多くの自国民を殺した2大殺人者です。特に、毛沢東が中国国民にもたらした死者の数は数千万人で桁が違う。

【垂】1956年のフルシチョフによるスターリン批判は、毛沢東にとって大きな衝撃でした。毛沢東はスターリンに対して複雑な感情を抱いており、個人的には必ずしも好意的ではありませんでしたが、中国でスターリン批判を展開すれば、当然毛沢東自身への批判につながることを強く意識していました。そのため、毛沢東はスターリンを「功績7割、過ち3割」と評価し、全面否定を避けました。

また、フルシチョフの「平和共存論」に対しても、これは革命の放棄であり、米帝国主義への協調だとして厳しく批判し、中ソ対立は次第に激化していきます。こうした状況の中、国内では先に述べた大躍進の失敗により毛沢東の権威は大きく揺らいでいました。そこで毛沢東は、権威と権力を取り戻すべく、1966年から文化大革命を発動し、劉少奇や鄧小平ら実権派に対して激しい攻撃を加えました。

文革により、紅衛兵による暴力的な粛清や知識人への迫害、党・国家機関の麻痺などが全国に広がり、中国社会は深刻な混乱に陥りました。文革についても、大躍進と同様に正確な研究が許されていないため詳細は不明ですが、数百万人から2000万人が犠牲になったと推定されています。餓死、拷問、虐殺など多岐にわたりました。こうした中、劉少奇もまた、文化大革命の中で失脚し、十分な医療を与えられないまま、1969年に死亡しました。

謎の死を遂げた「毛沢東の後継者」

【兼原】文革の猛威は有名ですね。私も『芙蓉鎮』という中国映画を見て、こういうことだったのかと想像ができるようになりました。しかし、「造反有理」と言って子どもたちを思いっきり煽って、既存の政治体制や社会をぶっ壊すというのが、いま一つピンと来ません。日本の総理大臣がいくら中高生を煽っても自民党や日本政府は潰せないですよ。でも、文革で毛沢東がやったのは、そういうことですよね。

【垂】日本の首相が煽っても通用しないでしょうが、当時の毛沢東は神のように崇拝されていました。その背景には、夫人の江青らの「四人組」や林彪の強い影響力もありました。林彪は毛沢東語録を編纂し、自らの出世と軍のトップとしての地位を固め、将来的には毛沢東の後継者になるとの野望を抱いていました。実際、1966年に彼は党内序列2位まで上り詰めます。

【兼原】でも結局、殺されますよね。

【垂】1971年、ソ連に逃亡しようとした林彪の搭乗機がモンゴルで墜落し、死亡しました。その真相はいまも不明ですが、林彪が毛沢東に取って代わろうとした計画が露見し、追い詰められて逃亡を図った結果だとされています。林彪がソ連寄りであったことは確かだと思います。