天皇と皇族を除き、日本国民は名字を持っている。この「名字」というシステムは一体どのように広がっていったのか。静岡大学名誉教授・小和田哲男さん監修の『家紋で読み解く戦国時代』(宝島社)より、一部を紹介する――。
たくさんの印鑑
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名字のある武士=領地を持つ武士

武士の間で名字が広まるのは、平安時代になってからである。平安時代初期から中期にかけて、中級・下級貴族や官人出身の官位が低い軍事貴族が都を離れ、武力をもとに土地を支配するようになる。

例えば、下野国の在庁官人だった藤原秀郷、上総国に下向した平良文からは、のちに有力な武家が派生している。このような武士の領地のことを「名」と呼ぶが、名の呼称は地名がもとになっている。

やがて領主はもともとの氏姓を用いず、「名」の呼称を名乗るようになっていく。現在、姓のことを「名字」と呼ぶのは、これが由来とされ、このような名字は各地に広まった。一方で、すべての武士が領地を持っていたわけではなかったので、「名」を持たない下級武士、武士の家来たちは、名字を名乗ることができず、「太郎」や「五郎」など、下の名前だけで呼ばれていた。

つまり、この頃、名字を名乗っている武士は、それだけで領地を持っている者だと判別できた。名字の有無が領地の有無を表しており、武家社会では名字はステータスとなっていったのである。

源平合戦は「紅白」の戦いだった

家紋の成り立ちは、名字の普及とはまったく別の起源を持っている。家紋は貴族の間で広まるが、武士が持つようになったのは、源平合戦の頃である。源平合戦では、敵と味方を区別するために、源氏は白旗、平氏は赤旗を掲げた。

当初は旗下の者の区別はなかったが、源頼朝が自らと下級武士が同じ旗を掲げることを良しとせず、旗にそれぞれの紋を付けさせた。合戦場で遠くから見てもわかりやすく、シンプルで力強さを感じさせる図柄が好まれ、貴族の優美な家紋とはおもむきことにしている。