源一族から鎌倉幕府を倒す分家が生まれる
鎌倉幕府の衰退の要因の一つに、分家が増えたことが挙げられる。合戦で功績を挙げた武士は、褒賞として地方の領地を授けられたが、移り住んだ先で子孫に領地を分割相続して、分家を出していった。
鎌倉武士団は、一族の長(惣領)が中心となり、兄弟や親族を統率する惣領制が一般的だった。しかし、一族の統率は惣領家(宗家)の長男が担っても、土地は兄弟が分割して相続するため、所領が細分化。惣領家の力が弱まることにつながり、ときに分家との対立を招くことになった。
このような弱点を克服するため、時代が進むにつれ、長子単独相続に移行。南北朝期になると、一族の連帯から、単独の家を継ぐ「家督」という考えが主流となっていく。
分家が一族の名字ではなく、地名をもとにした新たな名字を名乗るケースは平安時代から見られた。例えば、河内源氏の棟梁・源義家からは、源頼朝につながる本家、のちに鎌倉幕府を滅亡に導く足利家や新田家という分家が派生している。
「権威の象徴」は名字から家紋へ
武家社会では、家紋は合戦の際に敵味方を見分けるもので、名字ほど重視されてはいなかった。しかし、殿中に上がる際の礼装には紋を付ける習慣がある。南北朝・室町時代にかけて、儀礼上、武家社会の間でも家紋は不可欠となっていく。
室町幕府を開いた足利尊氏の桐紋は、後醍醐天皇から下賜されたもので、武家政権が天皇の家紋を使用した最初の例となった。こうして家紋は、名字を代替する権威の象徴としての役割を持つようになっていく。
名門一族出身の者が多い守護大名に対し、下剋上でのし上がった戦国大名は、権威を求めて、出自(本姓)や家紋をつくり出そうとした。名字に対して、本姓とは、中世に天皇から与えられた氏のことだ。
武士の本姓の代表が「源・平・藤・橘」、つまり「源氏」「平氏」「藤原氏」「橘氏」である。戦国武将たちの多くは、源氏や平氏、藤原氏、橘氏を本姓と自称し、家系図までつくり上げた。

