台湾問題が表面化したきっかけ
【垂】こうした国内の混乱が続く一方で、国際政治において中国はソ連修正主義を主敵に据え、米帝国主義と手を結ぶという戦略的大転換を行いました。これは、イデオロギーを超えた現実主義的な外交方針への転換でした。
1971年7月にはアメリカのキッシンジャー大統領補佐官が極秘裏に北京を訪れ、翌1972年2月にはニクソン大統領の電撃的な訪中が実現しました。この訪中は世界に衝撃を与え、両国は「上海コミュニケ」を発表して国交正常化への道筋を明確にしました。
同コミュニケでは、「一つの中国」原則に関して、中国側が台湾を中国の一部とする立場を表明し、アメリカ側はその立場を「認識」(acknowledge)するにとどめつつ、平和的解決を求める姿勢を示しました。なお、ニクソン訪中は副次的効果として、同年9月の日中国交正常化にもつながっていきます。
もっとも、米中の関係改善にはアメリカ国内では慎重論も根強く、米中国交の正式な樹立は1979年1月まで待たされることになります。その際、アメリカ議会では「台湾関係法」が制定され、台湾との実質的な経済・安全保障関係を維持する枠組みが残されました。これにより、米中関係は協調と競合を併せ持つ複雑な構造を抱えたまま現在に至っています。
首脳会談で露わになった中国の焦り
【垂】1970年代初頭の米中接近の背景については『キッシンジャー秘録』に詳しく記されていますが、それによるとすでに1970〜71年頃から米中両国は対ソ連牽制で接近し始めていました。
アメリカにとっては、泥沼化していたベトナム戦争から「名誉ある撤退」を模索していたことも大きな要因でした。一方、中国にとっては1969年のダマンスキー島事件をきっかけとする国境武力衝突によりソ連との全面戦争の危機が現実味を帯びていました。
こうした地政学的危機感が、毛沢東をして「敵の敵と手を結ぶ」という決断へと導いたといえます。
【兼原】田中角栄と周恩来の対談記録も日本では全部公開されていますよね。あれを読むと、周恩来は日中国交正常化を「一気呵成にやりたい」と言っています。田中首相はああいう人だから2カ月で本当にやっちゃいますが、その時の記録を読んでいると、周恩来が「ソ連の6個師団がモンゴルに下りてきている」という話をしています。
69年に中ソの国境紛争のダマンスキー島事件が起こっています。双方で百万近い軍勢が動いたと言われており、そのまま最終的な解決に至らず、両軍とも戦闘態勢は崩していなかった。

