歌人の父は娘の歌を認めた
100歳の歌人、春日真木子さんの短歌人生は夫に先立たれ、未亡人となったことが起点となった。1954(昭和29)年、28歳の春日さんは世間の「未亡人」という類型化に、短歌によってNO! を突きつけた。
生身の人間としての心からの思い、叫びを表現する手段がデモンストレーションや評論ではなく、短歌だったことはもちろん、歌人である父、松田常憲の存在あってのこと。幼い頃から、短歌は春日さんの血肉となっていた。娘が作った歌を、父は認めた。そして、「赤い色の洋服を着ろ」とまで言った。
翌1955(昭和30)年、春日さんは短歌結社「水甕」に参加、歌人として歩み始める。
1958(昭和33)年に、再婚が決まった。相手は王子製紙の技術者で、妻に先立たれ、3人の子を持つ男性だった。お見合いで結婚を決めたのは、夢に出てきた男性だったからだ。娘のいづみさんは「母は夢が不思議なの、いつも」と言うが、それは子どもの頃の夢の話。
「半分折れたスキーを担いだ人と、すれ違ったの。変なおじさんだと思ったから、覚えていたの。それもあったし、父が『初めて、青空を見る気持ちだ』って、春日をすごく気に入ってくれたのも大きかった」
再婚し、いきなり4児の母に
父はその年に、急死する。「安心して、常憲は死んじゃった」と春日さん。
春日さんはいづみさんを連れ、結婚後の生活拠点である札幌へ向かう。夫には中1、高1、高3の子どもがいた。
「急に、思春期の3人のお母さんになるというのは大変なことでした。私ね、料理しかないって思ったの。一生懸命お料理をつくりました。おやつもお夜食も。母が料理が得意でしたのでレシピをたくさんもっていました」
なるほど、まずは胃袋を掴むのだ。思わず、「頭がいい、さすがです」と言葉が漏れるや、「春日だから、さすが」と間髪入れずの、絶妙な返し。このユーモアって何? まさにこれぞ、100歳の「まきこみサーブ」(注)だ。
昭和46(1971)年、札幌から苫小牧に転勤となった。既に子どもたちは巣立ち、いづみさんも東京で暮らしていた。なかなか東京に戻れない忸怩たる思いの転機となったのが、思い切って参加した、角川書店主催の「ヨーロッパ短歌の旅」だった。